ととと・・・と軽い足音がしたかと思うと、
「まあ、博雅さま」
露子が声をかけてきたので、博雅は振り向いた。
「こちらにいらしたのね」
「・・・あの」
晴明の容態を訊ねようと、博雅の唇が動くより先に、
「晴明さまが呼んでいらっしゃるわ」
「え・・・?」
「博雅さまに傍にいて頂きたいのですって」
博雅は無言で立ち上がり、小走りで奥の間に向かった。
露子も後を追う。
そろそろと御簾を掲げ、中に入ってみると、褥に仰向けに臥した晴明は、傷ついた腕に布を巻かれていた。
ぐったりと目を伏せ、高熱のため白い顔にうっすらと紅がさしていた。
「晴明・・・!」
博雅が、臥床の傍らに膝をついて呼びかけると、薄く目を開いて博雅を見た。
「ひろまさ・・・」
掠れた声で名を呼び、片手を差し出した。
「頼む、ここにいてくれ」
いつになく弱っている様子の晴明に、博雅はひどく胸を痛め、
「大丈夫、ずっと傍におるからな」
差し出された手を両手で包み込んだ。
晴明は、安堵したように息をつき、再び目を伏せる。
博雅が助けを求めるように、医師(くすし)の方へ目を動かすと、代わって露子が口を開いた。
「けら男の時は二、三日高熱が続いたの。熱が下がれば、大丈夫だと思うのだけど・・・」
「二、三日・・・」
博雅は唇を噛み、晴明の手をさすりながら、
「頑張れよ、晴明」
そっと呼びかけた。
そのまま、晴明の容態はよくも悪くもならぬまま、夜を迎えた。
夜半を過ぎた頃、様子が変わった。
眉根を寄せ、息遣いが荒くなり、何やら苦しげな表情なのだが、高熱に苦しんでいるのとは少し違うようであった。
まるで、刀を執って何者かと戦う武人のような顔に見える。
「けら男がおかしなうわ言を言っていた時と、様子が似ているわ」
露子がそっと言った。
「・・・」
博雅は言葉もなく、ただ、時折ひどく力を籠めて握ってくる晴明の手をそっとさすってやるばかりであった。
博雅が傍についていると言うので、露子と露子に仕える者たちは、それぞれの寝所に引き上げることにした。
ただ、露子は、黒丸を御簾の外に控えさせ、そっと耳打ちした。
「眠らないでいるから、何かあったら呼んで頂戴」
晴明は、相変わらず何かと戦っているかのように、苦悶の表情を浮かべている。
―晴明は、おれを守るためにあの大蜘蛛に襲われ、このような目に・・・
なのに、自分にはこうして晴明の手をさすってやることしかできない。
博雅は、それが辛くて悲しくて情けなくて、ぽろぽろと涙を零しては、それを片手の甲で拭った。
そうして、明け方近くなった頃、まんじりともしなかった博雅は、それでもわずかにうつらうつらとしたものか、急に晴明に手を強く握られ、はっと我に返った。
晴明の顔に目をやって、思わず声を上げた。
「晴明!」
晴明は大きく目を見開き、強く歯を食いしばっていた。
常の彼とは思えぬ、恐ろしい形相であった。
体がぶるぶると痙攣している。
食いしばった歯の間から、
「ううう・・・」
と唸り声のような声が漏れている。
「せ、晴明!どうしたのだ、晴明!」
博雅が呼びかけても、まるで聴こえないようだ。
博雅の手を握る力は、骨が砕けるかと思うほど強い。
博雅は痛みをこらえ、両手でしっかりと晴明の手を握り返した。
「頑張れ、晴明・・・!」
博雅の頬をつたった涙が、晴明の顔にぽとりと滴り落ちた。
と―
ふと、晴明の体から力が脱けた。
見開いていた目が半開きとなり、やがて伏せられた。
口も穏やかに閉じられ、博雅の手を握る手の力も柔らかいものとなった。
「・・・晴明?」
博雅がおそるおそる声をかけると、晴明は再び目を開いて博雅を見た。
そうして、ふうっと微笑んだ。
いつもの澄んだ穏やかな眼差しであった。
「晴明・・・」
博雅は、安堵の余り泣き出しそうな声を出した。
「すまぬ、博雅・・・もう大丈夫だ」
晴明は掠れた声で囁くと、
「少し眠ってもよいか」
「おお」
博雅は、片手でやたらと目をこすりながらうなずいた。
「ゆっくり休めよ」
いま一度、晴明の手を両手で包むようにしてやると、晴明は安堵したように軽く息を吐き、目を伏せた。
「博雅さま」
いつの間にか、露子が入って来ていて、そっと声をかけてきた。
異変に気づいた黒丸が知らせに行ったものらしかった。
博雅と並んで座り、そっと晴明の顔を覗き込んだ。
「もうお熱は下がったようね」
「はい」
博雅は柔らかな笑顔で頷いた。
「もう、家の者も起きてきます。博雅さまはお休みになったら?」
「いや」
露子の申し出に、博雅は首を振った。
「傍にいてやりたいのです。・・・構いませぬでしょう?」
「もちろんよ」
露子は微笑した。
「博雅さまにここまでして頂けるなんて、晴明さまはお幸せですわね」
それから数日が過ぎた。
よく晴れた日の朝、晴明と博雅、それに黒丸を伴った露子は再び蓮台野へと足を向けていた。
「結局あれは一体何なのだ」
身なりと違わず、男のように元気のよい足取りですたすたと歩く露子の後から歩を進めながら、博雅は晴明に訊ねた。
博雅と肩を並べて歩く晴明は、ふうわりと白い狩衣を纏った姿も軽やかで、数日前まで床に臥せていたことなど、微塵にも感じさせない。
「あれはな。土蜘蛛だ」
「土蜘蛛?」
博雅は目を見張った。
「土蜘蛛と言えば、その昔、帝にまつろわぬ人々のことを卑しんで言うた呼び名ではないか」
「そうだな」
「東国の方では、そういった人たちを騙して茨の茂みに追い込んで殺してしまったりしたそうではないか。・・・痛ましい話だ」(※1)
博雅は、苦い物を飲み込んだような顔になって、
「その土蜘蛛と関わりがあるのか?」
「あるな」
晴明は頷いて、
「あの蜘蛛は、もともとはあの草むらに住み着いていた毒蜘蛛の類であったのだろうよ」
「毒蜘蛛?毒を持つ蜘蛛がおるのか?」
博雅が問い返すと、前を歩いていた露子が振り返った。
「草の葉に巣を作る蜘蛛で、毒を持っていて、咬まれるととても痛いものがいるのよ」(※2)
「ほう」
「でも、小さな蜘蛛よ。あんなに大きくはならないわ」
「件んの蜘蛛は妖しですからな」
晴明は微笑して、
「この地に住んでいて攻め滅ぼされた古き民を、帝の側の人々は『土蜘蛛』という名をつけた」
「・・・そうだな」
「それが、滅ぼされた人々の怨みの念に、『土蜘蛛』という呪をかけたことになったのさ」
「・・・こんなところで呪の話か」
「まあ聴けよ。・・・そのせいで年を経た古蜘蛛に古き怨念がとり憑き、妖しと化した、ということであろうな」
「それで、おまえは土蜘蛛と言うたのだな」
「そうだ」
晴明は頷いた。
「蜘蛛の毒自体は、もともと大した毒ではないから、毒のせいで命に障るというようなことはない。・・・厄介なのは、古き怨みの念の方だ」
そこで、晴明は口を切った。
件んの古塚の前に出たのである。
「どうなさるの」
露子が訊ねると、晴明は博雅を見た。
「博雅、笛を」
博雅は頷いて葉二を取り出し、唇にあてた。
紡ぎ出されてゆく澄んだ音に合わせるように、穴の前に立った晴明は、何事か謡のようなものを唱え始めた。
意味のわからぬ、不思議な言葉であった。
晴明の低い艶やかな声が、博雅の清らかな笛の音と絡み合うようにして、穴の奥に流れ込んでゆく。
ややあって、
穴の奥から、十五、六才ばかりの若い娘が現われた。
黒い髪を不思議な形に結い、身に纏うのも、見たことのない異国風のものである。
明るい初夏の日の光の下にありながら、その気配は薄闇の中にあるかのように朧で不確かであった。
娘が、晴明たちの前に膝をつくと、晴明が口を閉じたので、博雅も笛を唇から離した。
娘が不思議な言葉で何か言うと、晴明は深く頷いて、同じように二言、三言返した。
すると、娘はにっこりと微笑み、晴明に向かって頭を下げた。
頭を上げると、若かった娘の顔は、三十才ほどの女の顔になっていた。
女は、博雅にも何か言い、深々と頭を下げた。
博雅は、わけもわからぬまま礼を返してから、頭を上げて見ると、黒々としていた女の髪は真っ白に、顔も皺を刻んだ老女に変わっていた。
そして、次の瞬間には、日の光の中に溶け込むように消えていった。
「今のお方は・・・」
我に返った博雅が訊ねると、
「あの方が、『土蜘蛛』さ」
「何!?」
「この塚に葬られていた方なのであろう。・・・古き民の言葉で慰めてさし上げたので、怨みを捨て、次の世に去ってゆかれたのだ」
「古き民の言葉がわかるのか?」
「まあな」
「・・・おまえは、すごいな」
「おまえの笛は素晴らしかったと仰せられていたよ」
「・・・お気の毒なことだ。己が民を滅ぼされ、怨みの余り蜘蛛にとり憑くほどの仕打ちを受けられたとは・・・」
博雅の黒い瞳がふうと翳った。
「我らの祖先を為したことなのだよな」
ぽつりと呟いた。
三人は、そのまま黙って女の姿のあったところに目を当てた。
ややあって、露子が口を開いた。
「晴明さま、先ほどのお話なのですけど」
「はい」
「毒よりも厄介なのは古き怨み、とはどういうことなのかしら」
晴明は頷いた。
「毒蜘蛛にとり憑いて巨大な蜘蛛の妖しとなった、古き民の怨霊は、咬みついた相手にとり憑いて、何故我らを滅ぼしたのだ、と恨みつらみを言うて、昼となく夜となく責め立てるのですよ」
「何と」
「それで、けら男もあのようにうなされたのね」
露子は頷いた。
「姫のところの小舎人童は、まだ幼くて、怨霊たちの恨みごともよく理解できなかった筈。それで、かえってとり殺されるところまではゆかずにすんだのでしょう」
「では、それが理解できる年の大人であったなら・・・?」
「怨霊の恨みをまともに受け止めることになりますからなあ。下手をすればとり殺されかねぬでしょう」
晴明は事もなげに言った。
「こわい・・・」
露子は眉を顰めた。
「こわいものですよ、人の心というものは・・・」
晴明は呟くように言った。
それから、北野の別邸に戻る露子と別れ、晴明と博雅は肩を並べ、京中に向かって歩いていった。
博雅は、先ほどから黙りこくってしまって、晴明が何か話しかけても、上の空で頷くばかりである。
晴明も声をかけなくなり、二人は黙々と歩いていたが、不意に博雅が立ち止まった。
晴明は二、三歩行き過ぎてから、足を止め、振り返った。
「どうした・・・」
「なあ、晴明」
博雅はひどく思い詰めた様子で口を開いた。
「何だ」
「おれは、おまえが臥せっていた時、おまえの様子がとても悪いので、その」
時折口ごもりながら、ぽつぽつと言葉をつないだ。
「・・・もしや、と思って、とても不安だったのだよ」
「・・・」
「だが、露子どののところの小舎人童は、命に障りはなかったと言うから・・・」
大きく息を吸ってから、
「だから、大丈夫だ、大事には至らぬ、と己れに言い聞かせていたのだよ」
「・・・」
「だが、おまえはさっき、大人であったなら、とり殺されていたかもしれぬ、と・・・」
後は言葉にならなかった。涙をこらえようとして唇を噛む。
「博雅・・・」
晴明は、博雅の傍に歩み寄って、そっと手を取った。
「おれは陰陽師だから、ああいった者たちに対する時は、どう振舞えばよいか、ちゃんと心得ておるから、とり殺されたりなどはせぬよ」
「しかし・・・」
たまらず、博雅はぽろぽろっと涙をこぼした。
あの夜の恐怖と不安が甦ってきたのだ。
晴明は、俯いてしまった博雅の顔を覗き込んだ。
「なあ、博雅」
「・・・」
「おれはな、あの夜、おまえが力を貸してくれたから、かの怨霊にとり殺されずに済んだのだ」
博雅は顔を上げた。
「おれが力を?」
「そうだ」
晴明は頷いて、両手で博雅の手を優しく包んだ。
「おまえがずうっとこうやっておれに力を貸してくれたから・・・」
「晴明・・・」
「おまえがついていてくれたのだ、おれがとり殺されるわけなどなかろう」
晴明が柔らかく微笑したので、博雅は、
「うん」
こくんと頷き、空いた方の手の甲で涙を拭った。
よく晴れた空に向かって、雲雀の囀る声がのぼってゆくのが聴こえていた。
後日、再びこの古塚の穴に入ってみたところ、奥に古びて褐色になった人骨が横たわっているのが見つかった。
そして、その傍らには、一匹の小さな蜘蛛の、ひからびた屍骸がぽつんと転がっていたのであった。
結
何だか、前作『野宮』と似たような終わり方になってしまいました。
ちとマンネリ気味ですね・・・スランプかしら(T_T)。
たんぽぽさま、リク消化しておりますでしょうか〜?
タイトルは、またも謡曲『土蜘蛛』から。能のお話では、土蜘蛛に襲われるのは、大江山の鬼退治などで有名な源頼光ですが。
南北朝時代に成立した『土蜘蛛草紙』では、土蜘蛛の棲み処が蓮台野にあるとなっているので、そこから借りました。
(註)
※1 『常陸国風土記』の中にある話。茨城という地名の由来と言われてます。ずいぶんサツバツとした県名ですのう。
※2 「巨大な毒グモ」というシチュエーションは、某映画の影響なんですが(^^;)、調べてみたところ、日本には、たとえばタランチュラみたいに致命的な毒を持った種類はいないんだそう。そういえば、お能の『土蜘蛛』でも、蜘蛛の糸を投げるだけですしね。日本には昔は「毒グモ」という感覚はなかったわけです。
で、毒らしい毒を持っているクモが、日本にも一種類だけいて、それが「カバキコマチグモ」というクモ。咬まれるとものすごーく痛くなる、というレベルの毒だそうで。一応、このお話の蜘蛛は、このクモを想定しています。
ちなみに、このクモ、卵から孵った子グモがよってたかって母グモを食べちゃう、ということでも有名だそうです。ひええ〜。