野宮
嵯峨野は春も盛りであった。
山桜の木が一つ、竹林の片隅にぽつんと生えて、花を咲かせていた。
大きな木ではないが、花は満開で、枝からこぼれんばかりに咲き誇っている。
竹林の中の道を抜けてきた博雅は、思わず
「ほう」
と声を上げ、
「このようなところに桜の木があったとは」
花の下に歩み寄った。
この日、博雅は数名の公達に誘われて、嵯峨野へ野遊びに出かけてきていた。
野に毛氈を広げ、歌を詠んだり、酒を酌み交わしたり、楽好きの仲間であったので、共に笛や琵琶などを奏したりもした。
それから、思い思いに野歩きをして、草花を摘んだり、景色を眺めたりしているうちに、どうしたわけか、博雅だけが一人はぐれ、その上、道に迷ってしまったである。
そんなわけで、博雅はひどく困っていたのであったが、竹林の奥にひっそりと咲いた薄紅の花を目にした途端、そんなことはすっかり忘れて花に見入った。
すると、
「博雅さま」
愛らしい声に呼びかけられた。
見ると、いつの間に現われたのか、桜の枝の下に少女が一人立っていた。
年の頃は十四、五才、成人した女性のように髪を鬢そぎにしているが、愛くるしい顔立ちは、まだあどけない。
桜の襲の袿姿が初々しく、やわらかな春の日や満開の桜の花によく映えていた。
―どこかで・・・
博雅が考え込むより先に、少女が歩み寄ってきた。
そして丁寧に頭を下げた。
「お久しぶりでございます」
頭を上げると、真っ直ぐに博雅の目を見つめてきた。
その黒々とした瞳に吸い込まれるような気がしたか、と思うと、
博雅はふうと気を失った。
主にはぐれてほうぼうを探し回っていた実忠は、ようやく桜の木の下にうずくまっている博雅を見つけた。
「殿さま!」
肩を揺さぶると、ぼんやりとした目で見返してくる。
「・・・大丈夫でございますか?」
心配そうに訊ねられて、博雅はぼやっとした表情のままふらふらと立ち上がった。
「大丈夫だ・・・すまぬ」
「もう皆さま、お帰りの支度をなさっておいでです。車にお戻り下さい」
「ああ・・・」
博雅は、実忠の言葉につなずいて、歩き出したが、足取りも心なしか覚束ない。
おろおろする実忠に手を取られて、その場を離れて行った。
あとには、うららかな春の光を受けて、桜の木がはらりと花びらを散らしていた。
そんなことがあってから、何日かが過ぎた。
珍しく陰陽寮に出仕した晴明が、昼過ぎに屋敷に戻ってみると、蜜虫に通されて、実忠が待っていた。
「殿さまのご様子がおかしいのです」
「何?」
晴明は眉を顰めた。
「ご様子がおかしいとは?」
「先日、嵯峨野に野遊びに出かけられた時から、何やらぼうっとなってしまわれて、日なが一日座っておられるばかりなのでございます」
「口も聞かれぬのか?」
「いえ、こちらからお声をかければごいらえはなさいますし、御膳を前に置いてさし上げれば、ご自分で召し上がられます。・・・ですが、ご自分から進んで何かをなさろうとはされぬのです」
「お笛は?」
「楽器にも一切お手をお触れになられませぬ」
だから心配なのだ、という顔を実忠はした。
博雅が楽を奏でぬ、というのは、息をしていないということと同じである。
晴明もそれを聞いて、眉間の皺を一層深くした。
「わかりました。参りましょう」
うなずいて立ち上がった。
行ってみると、確かに博雅は自室でじいっと座っていた。
烏帽子と直衣をきちんと身に着け、何を見ているというわけでもなく、ただぼうっと一点を見つめている。
「殿さま」
晴明を案内してきた乳母の萩生が声をかけると、
「何だ?」
と顔を向けてきた。
その様子は、気が触れているようには見えない。
「晴明さまがお見えですよ」
萩生が言うと、
「晴明・・・」
心なしか眼差しが暗くなったように見えた。
晴明は、束の間片方の眉を軽く引きつらせたが、すぐにすっと表情を消して博雅に歩み寄ろうとした。
と、その途端、
「死ね!」
博雅が、彼の声とは到底思えぬような甲高い声を上げて立ち上がった。
その手にきらりと光る物が見えたかと思うと、
小刀を振りかざして晴明に襲いかかった。
「殿さま!」
萩生が悲鳴を上げる。
晴明は、突きかかってきた博雅の両手首を掴んだ。
「やめろ、博雅!」
しかし、博雅は晴明を睨みつけ、両手を振りほどこうと暴れた。
その目は暗く、憎悪に満ちている。
博雅がこのような目つきで誰かを見ることがあるとは、信じられなかった。
―博雅ではない・・・
そう思った瞬間、
「殿さま、ご無礼を!」
駆けつけてきた実忠が、暴れる博雅の首筋を手刀で強く打った。
気を失った博雅の手から小刀が落ち、体は晴明の腕に崩れ折れる。
「何という・・・」
萩生が真っ青な顔で、
「殿さまが人もあろうに、晴明さまに害をなそうとされるとは・・・」
「やはりこれは妖しが・・・」
「憑いておりますな」
博雅の体を支えながら、晴明は腰を落とし、実忠の言葉に頷いた。
「おそらく嵯峨野で何かあったのでしょう」
「まあ」
「お差し支えなければ、我が屋敷にお連れして、憑き物を落とせぬか手を尽くしてみようと思うのですが」
「それは、是非」
晴明の言葉に、萩生は一も二もなく頷いた。
「殿さまをよろしくお願い致します」
晴明は、屋敷の一室に、榊と御幣を四方に立て、注連縄をぐるりと廻らせた結界をしつらえ、その中に博雅の身を横たえた。
自分は結界の外側に座す。
やがて、博雅が目を覚ました。
ゆっくりと目を開き、首を廻らせて晴明の姿を見た途端、がばっと跳ね起きた。
晴明に飛びかかろうとしたが、見えない壁に阻まれて、弾き飛ばされる。
「結界を廻らせておりますゆえ、あなたはそこからお出になることは叶いませぬ」
晴明は落ち着いた声で言った。
床にうずくまった博雅は、頭を挙げ、恐ろしい顔で晴明を睨みつけた。
「・・・このお方はわらわのものじゃ・・・そなたなどには邪魔をさせぬ・・・」
不自然に甲高い声がその唇から漏れる。
「あなたはどなたです」
晴明は顔色も変えずに問うた。
が、博雅はそれには答えず、立ち上がって真正面から晴明を見据えた。
憎しみの籠った眼差しは、明らかに博雅のものではない。
「そのお方をどうなさるおつもりです」
晴明が問いを重ねると、
「知れたこと・・・わらわの背の君となって頂くのじゃ・・・」
博雅は己が身を自ら抱きしめるように両腕を掴んだ。
「愛おしいお方・・・わらわが伊勢より戻った暁には、必ずわらわと添うて頂くと・・・」
「伊勢?」
晴明は眉を顰めた。それから、
「そのように、そのお方とお約束をなされたのですか?」
更に問うてみた。すると、
「約束?」
博雅の顔が引きつった。
「約束・・・約束はして頂いたであろうか・・・野宮でのお籠りの間にこっそり文をさし上げた筈・・・お返事は・・・」
両手で頭を抱え、
「おお・・・」
恐ろしい声を上げ、激しく頭を振った。
「思い出せぬ・・・お返事を頂いたのか・・・文をさし上げた夜より後のことが何も思い出せぬ・・・」
うなり声を上げながら、なおも頭を揺さぶったため、烏帽子が落ち、髪がひどく乱れた。
「いかん・・・!」
晴明は立ち上がって、
「お鎮まりなさいませ!」
と鋭く声を放った。
博雅はぴくりと動くのをやめ、乱れた髪の間から晴明を見た。
「あなたがそのお方を愛おしい、とお思いならば、すぐにそのお方から離れられよ!」
凛とした声が響く。
「何故じゃ・・・何故離れねばならぬ・・・わらわの背の君となるお方ぞ・・・」
博雅はしわがれた声で呻くように言った。
「あなたが憑いておられると、そのお方のお身が弱ってゆくのです・・・増してそのように暴れたりなさると、やがては儚くおなりになってしまわれますぞ」
晴明は厳しい声で言った。
「黙れ、黙れ、黙れ!」
博雅は金切り声で叫んだ。
「そのようなことを言うて、わらわからこのお方を奪うつもりであろう!」
「自ら離れぬのなら、無理にでも離れて頂きますぞ!」
晴明は珍しく声を荒げ、袖の中から呪符を取り出した、が、
「これは使えぬ・・・」
博雅の体を傷つけてしまうかもしれない。
晴明は、結界から抜け出そうと暴れる博雅を見据え、覚悟を決めたように大きく息を吸った。
そして、手近にあった榊の一つを蹴り倒した。
注連縄が緩んで床にだらりと垂れる。
「おのれ!」
結界が破れて、博雅が飛び出してきた。
晴明に飛びかかると、
「死ねい!」
その白い首に両手をかけて、力いっぱい締め上げた。
梶北さま35000打キリリクでございます。
大変にお待たせした上に、前後編・・・大顰蹙でございます。
海より深く反省・・・
まだ見に来て頂けているのでしょうか?(;_;)