「ぐ・・・!」
晴明は、一瞬気が遠のきかけたが、かっと目を見開いて博雅の目を見返し、絞り出すように叫んだ。
「助けてくれ!博雅!」
その瞬間、博雅の動きが止まった。
大きく見開いた瞳に澄んだ光が戻ったかと思うと、晴明の首から手を放し、2、3歩後ずさった。
晴明は崩れるようにその場に蹲る。
博雅は両手をぶらりと下げ、立ち尽くしていたが、やがて、静かな声で呟いた。
「もう、お止め下さい、宮さま」
瞳が何とも悲しげな色を浮かべている。
「もし、宮さまが晴明どのを手にかけるようなことをなさったとすれば、わたくしは宮さまをお恨みしなくてはなりませぬ」
すると、その表情が微妙に動いたかと思うと、甲高い声が再び叫んだ。
「何故・・・何故なのです!博雅さま」
すぐに険のある表情が消えて、声も穏やかなものになる。
「晴明どのは、わたくしにとってかけがえのない方だからです」
「・・・」
博雅の顔が嫉妬に歪んだ。
「何故わたくしではないのですか・・・」
嫉妬の表情は、すぐに悲しげなものに取って代わった。
「宮さま、宮さまがわたくしに下さったというお文は、わたくしには届きませんでした。・・・届いたとしても、お返事をさし上げることは叶わなかったでしょう」
「・・・何故です・・・」
「宮さまは、文を出されたという日の翌日、急な病で身まかられたのですよ。・・・あれは10年・・・いや15年前のことでしたか・・・」
「・・・」
「わたくしは、宮さまが人を殺めるところなど見たくはございませぬ。・・・あのようにお優しかった宮さまが・・・」
博雅は声を詰まらせた。頬をつたう涙はどちらのものであったろうか。
「わたくしは、今でも憶えておりますよ。幼き頃、内裏で宮さまと共に遊んだ折のこと・・・」
「・・・」
「宮さまが病の子猫のために、寝ずに看病されたことがありましたなあ」
「博雅さま・・・」
博雅はがっくりと膝をつき、深く頭を垂れた。
そのまま、しばらく動かなかったが、不意にぱっと顔を上げた。
そして、蹲っていた晴明のもとに駆け寄ると、傍らに膝をついて、肩を抱え込んだ。
「大丈夫か、晴明!」
晴明は、ひどく咳き込んでいたのだが、博雅には笑顔を向けた。
「ああ、大事ない・・・おまえこそ大丈夫か?」
「すまない・・・おれの、この手がおまえを・・・」
博雅は辛そうに己が両手を見やった。
晴明はかぶりを振り、その両手を取って、
「おまえの意志でやったことではないから、気に病むことはない。・・・おまえはおれを救うてくれたのだ」
「晴明・・・」
優しく手をさすられて、博雅はぽろぽろと涙を零した。
「あのお方は、延喜の帝の十五番目の姫宮さまで、名は斉子さまと仰せられる。わが叔母にあたるお方だ」
博雅は、嵯峨野へ向かう車の中で、晴明に語った。
「先帝の時に伊勢の斎宮の宣下を受けられたのだが、野宮での潔斎の最中にふとした病で身まかられたのだよ。まだ、数えで十六、というお年であられた」
「そうか」
「叔母ぎみとはいえ、おれの方が少し年上であったから、幼き頃内裏で暮らしていた時には、よく共に遊んだものだ」
博雅は目を潤ませた。
「おまえに想いを寄せておられたのだな」
晴明が言うと、博雅はかぶりを振った。
「・・・おれは知らなかったよ。お互い成人すると、ほとんど顔を合わせぬからなあ」
それから、ふうと吐息をついて、
「心の優しい姫であられたよ。小さな生き物がお好きでな、よく小鳥や猫などを可愛がっておられた」
「詳しいことは、姫宮の乳母どのが教えてくれるだろうよ」
二人は、尼となり、野宮の近くで庵を営んでいるという件んの乳母のもとに向かっているのである。
乳母は突然の博雅の来訪に動転したが、いきさつを聞かされると、はらはらと涙を落とした。
「はい、宮さまは確かにあなたさまに想いをかけておられました」
涙の合間に、ぽつぽつと語り始める。
「幼き頃から、大人しくて目立たない姫であらせられましたので、特にお心をかけて下さったのは、兵部卿宮の一君さま・・・あなたさまだけでございましたのよ」
「・・・」
「ですので、ご成人なさって直にお会いできなくなると、いずれは博雅さまの妻にして頂くのだ、とそればかり夢見ておられました」
「そうでしたか・・・」
「そこへ、斎宮の宣下を受けられたのです」
斎宮になると、都を離れ、伊勢に下らなければならないばかりでなく、身を清く保たねばならぬので、男と逢うことも許されぬ身となる。
斎宮の任を解かれ、伊勢から都に戻れるのは、いつになるかもわからない。
切羽詰った姫宮は、
「わたくしが伊勢から戻った折りには、必ずわたくしのもとに通うてきて下さいまし」
としたためた文を博雅に宛てて送ろうとしたのであった。
しかし、姫宮は、伊勢への下向を前に嵯峨野の野宮で潔斎をする身である。
男に懸想して文を送ったことが知れれば、斎宮の任を解かれるばかりでなく、重い罰を受けるかもしれない。
何より、悪い評判が広まって、若い姫宮の名に傷がつく。
これを案じた乳母は、姫宮から文を託された女房からこれを取り上げ、焼き捨てた。
だが、姫宮は、文を書いてすぐ、急な病を発し、いくらも床につかぬうちにはかなくなってしまったのであった。
「そういうことであったのですね・・・」
博雅は言葉を失った。
「未だ成仏も叶わず、この世を彷徨っておられたとは・・・」
乳母はその場に泣き伏した。
「このようなことになるのでしたら、文をあなたさまにお届けして、宮さまの想いを叶えてさし上げるべきでした」
庵を出た二人は、しばらく無言のまま肩を並べて竹林の中を歩いていた。
「あ・・・」
ふと博雅が足を止めた。
「晴明、あれを・・・」
博雅が指差したのは、一本の山桜の木であった。
もう花の盛りは過ぎ、緑の葉の方が目立つ。
「この木の下で、おれは宮さまに会うたのだよ」
晴明は辺りを見回してから、
「この裏はすぐ野宮だな」
「おお」
博雅は目を見張った。先に迷い込んできた時には気づかなかった。
「姫宮の、おまえへの叶えられなかった想いが、この地に止まっておったのだろうな」
そして、十年余りの年月の果てに、たまたま通り合わせた博雅その人に巡り会った。
だが、その心は・・・。
―亡き人の魂があれほど激しく嫉妬するほど、おれの存在が大きかったというのか・・・
晴明は、桜の木をぼんやりと見上げている博雅の横顔を見やった。
博雅は、誰にでも優しいから、時々晴明にも彼の本心が見えなくなることがある。
しかし、
―やはり、おれは特別だ、と自惚れてもよいのかな。
晴明は内心でそっと呟いた。
すると、
「なあ、晴明」
博雅が、ふと呼びかけてきた。
「何だ」
「おまえ、あの時、何故自ら結界を破ったのだ?」
「ああ」
晴明は、話したものか束の間逡巡したが、
「姫宮の霊が何としてもおまえから離れぬのでな」
術を用いて無理に引き剥がそうとすれば、博雅の身も危うくしてしまう。
「だから、敢えて憑りついていたものにおれを襲わせて、おまえに助けてもらおうとしたのさ」
「おれに?」
博雅は目を丸くした。
「おれが助けてくれ、と言うたら、眠らされていたおまえ自身が、おれを救うために目覚めてくれるのでは、と思うたのだよ」
晴明は微笑した。
「そして、本当におまえは助けてくれた」
「ばか!」
博雅は大きな声を出した。
「もし、おれが目覚めなかったら、あのまま、おれのこの手で縊り殺されていたのだぞ!おれの身など構わぬから、術を使うてくれればよかったのだ!」
晴明は頷いた。
「そうだな。確かにあれは危ない賭けであった。・・・だがな」
博雅を見る目は穏やかだった。
「どこかでそれでも構わぬ、と思うていたのかもしれぬな。・・・おまえになら命を奪われてもよい、と」
「晴明・・・」
博雅は一瞬言葉を失ったが、すぐに首を激しく横に振った。
「おまえは、本当におれのことを考えてくれていたのか?おれのこの手でおまえの命を奪ってしまったと知って、おれがどうにかならぬとは思わなかったのか?」
「博雅・・・」
激しい言葉に、今度は晴明が言葉を失った。
大きく見開かれた瞳からぽろぽろと涙が零れたかと思うと、博雅は片手で顔を覆い、声を上げて泣き出した。
晴明は、そっとその肩を抱き寄せて背中をさすった。
「すまぬ、博雅。おまえの言う通りだよ。咄嗟のことであのような手を使うてしもうたが、思えばおれの身勝手であった」
博雅は、晴明の肩に顔を伏せて、しばらくしゃくり上げていたが、少し落ち着くと、体を離し、
「・・・いや、そうではないよ、晴明。すまない、おまえは身を賭しておれを救うてくれたのに、おれが無茶な駄々をこねたのだ。・・・気にしないでくれ」
童のように手の甲で目をこするのを、晴明はとどめて、袖から手巾を出して顔を拭いてやった。
「・・・もう、おまえの気持ちを傷つけたりはせぬ。約束する」
「・・・。」
博雅は濡れた瞳でじっと晴明を見たが、やがてこくんと頷いた。
晩い春の日差しが、穏やかに萌え出でた桜の若葉に降り注いでいた。
結
嵯峨野の野宮、というのは、伊勢神宮の斎宮に選ばれた皇女が伊勢に下る前に潔斎をしたところ。
『源氏物語』の「野宮」の巻でも有名ですね。能の演目にもありますし。
で、醍醐天皇の第十五女(何人子どもおんねん(--;))斉子内親王というのは実在します。
朱雀天皇の即位に当たって斎宮の宣下を受けたが、下向前に亡くなったというのも一応史実です。
ただ、亡くなったのは、どうも野宮に入る前のようです。
でも、やっぱ野宮の方が素敵なので、野宮で潔斎中に亡くなったということにしました。
いつものことですが、突っ込みご容赦。(^^;)
921年生まれで、博雅より3才年下なので、多分面識もあったでしょうが、どうだろ。
・・・というわけで、梶北さま、リク消化しきれてますでしょうか〜。