目を覚ますと、明るい朝の光が部屋を満たしていた。

「お目覚めになりましたか」

優しく呼びかける声が少し震えている。

見ると、乳母の萩生が臥床の傍らに侍していた。

「ご気分はいかがですか?」

「ああ・・・悪くない」

「一時はどうなることかと思いましたけれど・・・熱が下がりましてほんにようございました・・・」

萩生は袖を目元にあててから、口調を改めて、

「これからは寒い季節ではないからと言うて、雨に濡れながら出歩かれなどということはなさらぬよう、十分にお気をつけ下さいまし」

「ああ、すまぬ。心配をかけた」

博雅は弱々しく微笑して詫びると、

「そうか・・・」

顔を天井に向け、

「夢であったのか」

ため息をついた。

「どのような夢を御覧になられたのですか?」

萩生が問うた。

「いや」

博雅はまた弱々しい微笑みを浮かべて、

「晴明どのがここにおられたような気がしたのだよ」

そんな筈はないのに。

ふうっとまた吐息をついた。

が、萩生は静かに言った。

「おられましたよ」

博雅は目を見開いて乳母を見やった。

「殿さまのご様子が余りにお悪いので、晴明さまをお呼びしたのです」

「・・・」

「貴重なお薬をお持ちくださったばかりでなく、片時もお傍を離れず、まる二晩一睡もなさらず、殿さまを看て下さったのですよ」

萩生はまた袖を目にあててから、

「殿さまのお熱が下がりましたゆえ、もう安心と仰せられ、いったんお屋敷にお戻りになりました。・・・新しくお薬のお支度をなさってから夕方にはまたこちらへいらして下さるそうですわ」

「そうか・・・」

夢ではなかった。

そう思うと、あとからあとから涙が溢れてきた。

そのまま、博雅は、いつまでも静かに涙を流し続けていた。



屋敷に戻った晴明は、着替えをしてから、すぐに薬種を取り出して薬の調合を始めた。

そこへ蜜虫が来客を告げた。

「桂宮さまの姫ぎみよりのお使いです」

晴明は顔も上げずに、

「多忙ゆえお会いできぬ、と言え」

と命じようとしたが、

「・・・いや、やはりお通ししろ」

と言い直した。

使いは初めて見る女であった。

暗い色の衣を纏い、黒目の大きい不思議な目をしている。

丁寧に両手をついて口上を述べるさまは、いかにも高家の女房といった様子であった。

「姫さまには、火急のご相談がございますゆえ、すぐに晴明さまにお出で頂くよう、との仰せでございます」

晴明は、にこりともせずに答えた。

「生憎でございますが、本日は少々多忙でしてな。お屋敷へはお伺いしかねます」

「それは残念」

使いの女は顔を上げた。

紅く塗られた唇の端がにいとつり上がった。

「源博雅さまがみまかられましたか」

晴明は顔色を変えなかった。

「何故わかりましたか」

「やはり亡くなられましたか」

女の笑みが深くなった。

「晴明さま」

「何でしょう」

「わが姫ぎみは、あなたさまが何かというと、博雅さまとお会いになるからと言って、姫ぎみの御用をお断りなさるのを大層苦々しく思われております」

「そうでしたかな」

「そこで、姫ぎみはわたくしにご相談なされましたの。何とか博雅さまが晴明さまにお会いせぬようできぬものか、と」

「ほう」

「わたくし、できましょう、とお答えしました」

女は笑みを消さぬまま、

「そうして、博雅さまのお耳に入れたのです。晴明さまは、いずれあなたさまのことをお厭いになるようになりましょう、と」

「・・・」

「もちろん、そのまま申し上げても一笑に付されましょう。ただ、わたくしはちょっとした術を用いることができますの」

「己れが囁いた言葉を、相手が自ら思いついたことのように思い込ませる、という術ですな」

晴明は眉一つ動かさぬまま言った。

女の口元から笑みが消えた。

「何故それを・・・」

晴明は答えない。

「とにかく」

女は動揺を押し殺して、

「博雅さまは、いずれあなたさまに見放されると思い込まれた。」

無理に笑みを作った。

「そうして、そのままあなたさまのもとから足が遠のくようになりさえすれば、こちらの思惑通り、でしたのですけど」

女は嘲るように声を立てて笑った。

「まさかそのことを気に病まれた挙句、病に伏されるとまでは思いませんでしたわ。」

晴明の眉がわずかに引きつった。

「そうして、とうとうはかなくなってしまわれたとか・・・」

女はまた耳障りな笑い声を上げた。

「博雅さまにはお気の毒ですが、あなたさまとお会いせぬように、というこちらの思惑通りになりましたゆえ、好都合ということになりましょう」

晴明は口を開いた。

「まことにそうですかな」

女はぴたと笑いをやめた。

「まことに・・・とは?」

「まことに、姫ぎみにとって博雅さまが失せたまわれることが好都合なのでしょうかな」

「それはどういうことでございましょう」

女は不自然な笑みを作った。

「わかっておられるでしょう。かの姫ぎみは、うわべでは博雅さまを邪険になさるが、心の内では博雅さまともっと仲ようなさりたい、とお考えであることを」

女は答えない。

「姫ぎみは、仲のよいお身内として博雅さまがお屋敷を訪ねて下さり、笛を吹いたり、話をしたりして欲しいとお考えなのではないですかな」

「・・・」

「博雅さまはお優しい方だから、ついつい甘えて辛くあたったりなどなされてしまうようだが、これに閉口された博雅さまの足が遠のいていることにあせりを感じておられた」

晴明を博雅から引き離したかったのか、博雅を晴明から引き離したかったのか・・・。

「それはあなたが一番わかっておられるはずです。・・・なぜなら」

晴明は一旦口を切ってから、

「あなたは姫ぎみご自身であらせられるからです」

「あな!」

女は奇妙な悲鳴をあげてざっと立ち上がった。

と思うと、ふうっと姿を消してしまった。

女が座していたところには、一輪の唐葵の花がぽつんと落ちていた。

花弁が、黒と見紛うような濃い紫色をしている。

「やれやれ」

晴明はそれを右手でつまみ上げ、左の手のひらに載せた。

「困ったお方だ。なまじおかしな術などかじったばかりに、とんでもないことになるところであった」

花に語りかけるようにつぶやいた。

「人は、時には己れの心に素直になる方が楽なこともありますぞ、姫」

そう言ってから、思わず苦笑した。

「他人(ひと)のことは言えぬか」

立ち上がって簀子に出ると、足元に花をぽとりと落とし、夏草が茂り放題な庭に向かって、足でぽんと蹴り出した。

それから、踵を返して、何事もなかったように仕事に戻った。



続く


 「唐葵」というのは、タチアオイの古称だそうです。

ほんとはクロユリを使いたかったですが、(「黒百合の女」って、火曜サ○ペンス劇場とかみたいだが)

富山の山岳地帯にしか生えない高山植物なので、ちょっと無理っスよね。

 

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