唐葵の女のことを、晴明は博雅には話さなかった。

聴けば人のよい博雅が、姫に申し訳ないと恐縮しかねないからである。

―それではまるでゴネ得ではないか。

しかし、博雅の方では、快復が進むと、内裏の闇に立った女のことをぽつぽつと打ち明け始めた。

それは、病後の静養のために、若狭国小浜の別邸に二人で移り住んでまもなくの頃であった。

博雅は、臥床に横になったまま、庭の向こうに広がる青い水平線を眺めながら口を切った。

「実はな、晴明」

宿直の夜に内裏で不思議な女に出会ったこと。

その女に言われた言葉。

「どういうわけか、その女房どののことは、すっかり忘れてしまっておったのに、その方のおっしゃったことは、まるでおれが自分で思いついたことのように頭から離れなかったのだよ」

傍らに座した晴明は、聞いているのか、薬を煎じている手を休めない。

博雅は、その横顔に目をあてながら、

「考えてみれば、その女房どのの言うことにも一理あるからなのかな」

「・・・」

「確かに、おれはおまえの言うことをいつもよくわからぬ、とばかり言うておるし、呪の話をなると耳も貸さぬし・・・」

そこで、大儀そうにふうと息をついた。

「おまえのことを、おれがわかっておらぬ、と言われたことが一番こたえたよ」

晴明はそこで手を止め、

「博雅、薬を・・・」

博雅が寝床に起き上がるのに手を貸してやり、薬湯の入った椀を手渡した。

それから、何気ない口調で、

「もう、そのような馬鹿げたことは考えぬことだ」

眉をしかめて薬湯を口に含んだ博雅は、大きな目だけを動かして晴明を見た。

「おれがいつも言うではないか。・・・おまえは、ほんとうのところはよくわかっておる、とな」

何とか薬湯を飲み干した博雅は、

「おまえはそう言うてくれるがな」

椀を持つ手を膝に置いて俯いた。

「桂宮の姫ぎみは、おれもよく知っているが、大変聡明で美しいお方だ。おまえの話にもさぞ喜んで耳を傾けられるのであろう?」

晴明は黙って聴いていたが、内心呟いた。

―ご自分の都合のよいところだけな。

「あのような方と親しく付き合うようになれば、おれなんぞと話をしていても面白くないのではないか、と心配になるものだ」

「聡明なお方も、美しい女人も、世間には幾らでもおるからな」

晴明はこともなげに言い、空になった椀を受け取ると、博雅が再び横になるのを手伝った。

「だが、博雅はこの世にただ一人しかおらぬ」

「晴明・・・」

晴明はそこでふっと苦笑した。

「そのようなことは、おまえはとっくにわかっておると思うていたが」

「わかっておる、わかっておったのだがな」

人は時に己が心すらも見失うことがある。

ふとした折に、相手の心が見えなくなってしまう時もあるだろう。

あの夜、博雅を捉えたのは、そんな一瞬の心の惑いであったのかもしれない。

「前にも言うたであろう?晴明という呪は、博雅という呪がなければ、この世にはありえぬ、とな」

晴明は、病でやつれて一層大きく見える瞳に優しく微笑みかけた。

「うん」

博雅はこくんと頷いた。

海からの爽やかな風が、巻き上げられた御簾を揺らし、海の香りと潮騒の音を運んできた。




 「晴明という呪は、博雅という呪が云々」というのは、原作『飛天ノ巻』の「鬼小町」から。

さすが、原作には勝てまへん。

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