再び夜が来た。

持参した薬は全て与えたが、はかばかしい効き目も見られず、晴明は、萩生には何も言わなかったものの、

―このまま夜のうちに熱が下がらねば、いよいよ・・・

と密かに覚悟を決めざるを得なかった。

夜がしんしんと更けていく。

晴明は、一人ぽつんと博雅の臥床の傍らに座っていた。

博雅が床についてから一睡もしていない、という萩生は無理に自室下がらせて休息を取らせている。

晴明の眼差しは、昏々と眠る博雅の顔にじっとあてられ、その額に兆す暗い影を見据えていた。

その影が何なのか、何故晴明がいくら呪を唱えても、印を切っても、これを祓えないのか、じっと考え続けていた。

いま一度、

「臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、前。」

左手の指を口元にあて、右手を博雅の額にかざして印を切る。

「―やはり駄目か」

めったにないことであったが、晴明の白い額にうっすらと汗が滲んでいた。

「博雅」

声をかけても、高熱に浮かされ、苦しそうに息をつく博雅は、じっと目を伏せたままである。

「何がおまえをそのように責めさいなんでおるのだ」

病そのものはただの風邪だ。

病に打ち勝とうという意志を阻むものがその額に兆しているというのに、

「おれにはそれを祓ってやる術がわからぬのだ、博雅」

晴明は血を吐くように呟いた。

見つめていると、博雅の息遣いは、今にも消え入りそうに弱々しい。

晴明は、すっかりやつれてしまった博雅の手を取り、己が額にあて、搾り出すように短く呟いた。

「死ぬな、博雅」

そうして、続いて口をついて出たのは、

「ノウボウ、マケイジンバラヤ、ウンマ、ホウシキャヤ、ソワカ」

伎芸天の真言であった。



「おらぬのか、晴明・・・」

涙も涸れ果てた様子で、博雅は、開かぬ門の前でぽつんと呟いた。

踵を返し、とぼとぼと歩き出す。

あの門が二度と己れのために開かぬというのなら、我が身が我が身としてあることに、どれほどの意味があるのであろう。

博雅は足を止め、崩れるように座り込んだ。

このまま、跡形もなく消え去ってしまえれば、どんなにかよいであろう。

そんなことを思った。

その時、

ふっくらした柔らかい手が優しく額に触れるのを感じた。

目を上げると、白い柔和な女の顔がのぞき込んでいた。

「このようなところで泣いておいでだったのですね」

尼姿の女が、博雅の傍らに膝をつき、額に手をあてていた。

「あなたは・・・」

あの春の日に、大和の野辺で出会った尼であった。

「博雅さま」

尼は叱るような口調で、

「あれほど、わたくしが申し上げましたのに・・・お心を乱すような声に耳を傾けてはならぬ、と」

そう言われた途端、博雅ははっきりと思い出した。

あの日の夜、内裏の庭の闇の中に立つ女のことを。

何故か、今の今まで忘れていたのだ。

―いずれは、晴明さまも、あなたさまのような愚昧なお方には見向きもされなくなるでしょうなあ

ただ、投げつられた女の言葉だけが心に残っていて、

まるで自身で思いついたことであるかのように、その心を苛んでいた。

―いずれ、晴明はおれを厭うようになって、おれから離れていってしまうのだ・・・

尼は優しく微笑した。

「何も案ずることはありませぬ。あなたさまがまことに信ずべきものをお信じなさい」

「・・・」

「さあ、御覧なさい」



博雅が、熱に浮かされたままぼんやりと目を開くと、

誰かが彼の手を取り、額におしあてている。

―晴明・・・

頼りない灯火の光の中で、その白い頬をつたう涙だ見てとれた。

そして、その唇から微かに発せられる声、

「逝かないでくれ、博雅・・・」

ぽっかりと開いた心の穴が、たちまちのうちに塞がってゆくのを感じた。

その手を精一杯握り返し、その名を呼んだ。

「せい・・・めい・・・」

かすれた声しか出なかったが、晴明は気づいたように、はっとした顔で覗き込んできた。

これに微笑みかけようとしたが、その前にふうっと意識が遠ざかっていった。



博雅の手が微かに握り返してきたような気がしたかと思うと、

「せい・・・めい・・・」

消え入りそうな声で呼びかけられて、晴明は思わずその顔を覗き込んだ。

しかし、博雅は目を伏せ、昏々と眠り続けている。

気のせいであったか、と落胆して、晴明は、博雅の手を臥床の上に戻した。

が、そこではっと気づいて、もう一度博雅の顔を覗き込んだ。

目に見えて息遣いが楽になっている。

熱で赤みを帯びていた顔は、青白くはあったが、穏やかだった。

額に手をあてると、明らかに熱は引いていた。

晴明は、安堵の余り、全身の力がぬけるような心地がした。

そして、呆然と宙を見つめて、恐らくは生まれて初めて神仏に感謝した。

「南無弥勒大菩薩・・・南無伎芸天」

―あなたさまが預かり子を救うて下されたのですね

秋篠寺の住持が見た夢、

弥勒菩薩が伎芸天に託した宝玉とは、

天が微妙の楽を奏でてその誕生を寿いだ、

この世の玉。

晴明は博雅の額に手のひらをおしあて、そっと囁いた。

「よく頑張ったな、博雅」



続く


 

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