そんなことがあってから、二日ほどが過ぎた。
日はようやく高く、白々とした明るい光が辺りを満たしている。
晴明は、自邸の簀子で、柱に背中を預けた例の姿勢で、庭を眺めていた。
くつろいだ姿勢とは裏腹に、軽く眉をしかめ、美しい顔はどことなく曇り勝ちに見える。
庭先にふわりと蜜虫が現われた。
「藤原実忠さまがお見えです」
「すぐお通ししなさい」
命ぜられて、蜜虫はふうと姿を消すと、すぐに実忠を庭先に伴ってきた。
晴明はすうっと立ち上がった。
実忠は、ひどく蒼い顔をしていた。
「晴明さま、本日は乳人さまのお使いで参りました」
「乳人・・・萩生どのの?」
「晴明さまには、至急お屋敷にお出で頂けまいか、と・・・殿さまが重い病で・・・」
晴明の片眉が引きつった。
「ご病気とは?」
「お風邪をお召しになったかと思ったら、急にお熱が高くなって、一向に下がらぬのです」
実忠は声を詰まらせながら、
「それはお苦しそうなご様子で・・・」
「わかった」
晴明はうなずいた。
「支度をしてすぐ参ります、と乳人どのにお伝えしてくれ」
「承りました」
実忠は一礼すると、気もそぞろな様子で足早に帰っていった。
日が中天にさしかかる頃には、晴明の姿は博雅の屋敷にあった。
博雅の乳母の萩生が、やつれた顔に少しほっとした色を浮かべて晴明を迎えた。
晴明を、博雅の寝所に案内しながら、
「三日ほど前でしたかしら、徒歩でお出かけになったのが、夜遅くにお戻りになったのですけど」
折りからの雨に降られて、全身びしょ濡れの有様で、
「すぐにお召し替えをさし上げたのですけれど、お体をすっかり冷やしおしまいになって」
「寒気がするなあ」
と呟きながら臥床に入ったが、翌朝から高熱を発してそのまま寝込んでしまった。
「医師(くすし)を呼んで、熱さましのお薬などをさし上げたのですが、一向に・・・」
「そのようなことに・・・」
晴明は一層眉間を曇らせ、
「実は、三日前に博雅さまには我が屋敷にお出で頂くことになっておったのです。」
「そうでしたの」
「あの日は、わたくしは急な用が出来、博雅さまにはお待ち頂くよう言い置いてあったのですが」
晴明は口調に深い後悔の色が滲ませて、
「わたくしが留守であったので、そのままお帰りになってしまったのです」
「まあ」
「それきり、こちらからは何のお沙汰もないので、いかがなされたかと案じておったのですよ」
乳母の眉間の皺が更に深くなった。
「何かあったのでございましょうか」
「・・・」
晴明は考え込んだ。
博雅の容態は思った以上に深刻であった。
高熱に意識も朦朧とした様子で、息遣いも苦しげである。
臥床の傍らに晴明が膝をついて、
「博雅・・・」
と晴明が呼びかけても、何の反応も返さない。
晴明はきゅっと唇を結び、持参した薬草を取り出した。
この辺りでは、晴明の屋敷の庭ぐらいにしか生えておらぬような珍しい草で、熱を下げるのに優れた効能があるものである。
「これを数刻ほど間を置いてさし上げてみましょう」
これを煎じて薬湯をこしらえながら、晴明は萩生に言った。
しかし、日が西に傾き、やがてとっぷりと暮れ、夜更けもすぎて、白々と明ける頃になっても、一向に熱の下がる気配はない。
博雅は、薬湯やおも湯などを口に含ませればこれを嚥下するが、意識ははっきりしないままで、時折、うわごとのように晴明の名を呼ぶものの、
「何だ・・・」
晴明が耳元に口を寄せて答えても、まるで聞こえていないようであった。
「何ぞ妖しが憑いておるのでは・・・」
萩生が不安げに言うと、晴明はかぶりを振った。
「それはございませぬ。・・・ただ」
「ただ?」
「・・・ただ、お風邪をこじらせておられるだけのようですから、お熱さえ下がればご回復なされましょうが・・・」
晴明の、一見沈着な面持ちからは、内心の焦燥をうかがい知ることはできなかったが、萩生は不安を拭えぬ様子で、それでも口をつぐんだ。
「おるかな、晴明」
戻り橋を渡りながら呟いた。
しかし、屋敷の前に行ってみると、門は堅く閉ざされていた。
片手で軽く押したが開かない。
両手で押してみたが、びくともしない。
「晴明!」
声を張り上げて呼びかけたが、いらえもない。
悄然として肩を落とした博雅は、
「今日も駄目か」
呟いて踵を返した。
昨日も、一昨日も、その前の日も、幾日通うても、晴明の屋敷の門の前に開いてはくれなかった。
「やはり、もうおれには会うてはくれぬのか、晴明」
重い足を引き摺りながら呟くと、涙がはらはらと頬を流れた。