そんなことがあってから、三月ほどが過ぎた。

その夜、宿直で清涼殿に詰めていた博雅は、親しい幾人かの公達と楽の話などつれづれに交わしていた。

と、ふと聞き覚えのある名が耳に入ってきたので、近くで噂話に花を咲かせていた幾人かの公達の方へ目を向けた。

「桂宮の姫ぎみとな」

「おお、また芙蓉のお方よ」

「父ぎみの桂宮は物堅いお方であったのになあ」

「うむ、あの姫ぎみは実に浮いたお方よ」

「無理もあるまい、かの唐土の楊貴妃もかくや、と思われるようにお美しいお方であると言うし」

「その上、才気煥発であらせられる」

「浮名を流される男も、誉れと言うべきであろうな」

亡き桂宮の一の姫は、才長けた人であった。

歌や詩をよくし、書も美しく、和漢の故事にも通じ、琴や琵琶も見事に弾く。

桂川の畔にある姫の典雅な屋敷には、姫に招かれた当世の才人たちや、姫の才を慕う趣味人たちがひきもきらぬと言う。

そして、恋多き女人でもあった。

浮名を流した若く美しい公達は数知れず、いつしか、艶やかな芙蓉の花に喩えられて、芙蓉姫と呼ばれるようになった。

宮家の姫ぎみとして皇統に連なる人であるので、博雅とも縁続きではあったが、その姫の名が耳に止まったのは、近頃その姫から頼まれごとをしたからであった。

「して、今度はいずれの男じゃ」

「聞いて驚くな」

藤原景直が勿体ぶって一同の顔を見渡した。

「何と、あの安倍晴明どのだそうだ」

「なに!?」

博雅が思わず発した声は、他の公達たちの驚きの声にかき消された。

「何と!」

「それはまことか?」

「いかに名高き安倍晴明どのとはいえ、のう」

「所詮は地下(じげ)ではないか」

「おお、仮にも宮家の姫ぎみが、あやしき生まれの者をお相手となさるかどうか」

「俄かには信じられぬ」

「いや」

景直はかぶりを振った。

「晴明どのは、あのように姿美しく、宮中の女房がたにも騒がれておるではないか。かの芙蓉の君のような色好みの女人には、身分だの生まれだのには意に介されないのではないか?」

「そうよの」

「芙蓉の君は、陰陽の理にも関心をお持ちだと聞いておる。その辺りからも晴明どのをお気に召したのかもしれぬな」

「ふうむ」

その時、一人の公達が、

「おお、晴明どのと言えば」

博雅を見た。

「こちらに博雅どのがおいでではないか」

「博雅どの」

「中将どの」

「教えて下され」

大勢の視線が集中したので、博雅はどぎまぎした。

「桂宮の姫に、安倍晴明どのがお通いになっているとは、まことですかな」

「さあ、わたくしは・・・」

「隠さずともよいであろう」

「教えて下され」

博雅は困ってしまった。

「いや、まことによく知らぬのです」

「まあまあ」

博雅の従兄弟の、源重信がとりなし顔で口を挟んだ。

「博雅どののご気性では、たとえご存知でおられたとしても、そう軽々しく口にすることはできぬであろう」

そんなふうに言われて、男たちは渋々引き下がらざるを得なかった。

「それはそうだが」

「気になるのう」

「おお、陰陽師と言えば、陰陽寮の何某とかいう者も、さる高家の姫ぎみに通うておるという話を耳にしたぞ」

「何と」

「それはどちらの姫じゃ」

話題が変わったのをしおに、博雅はさりげなくその場を立った。

助け舟を出してくれた重信に軽く頭を下げると、重信は気にするなというように、微笑して片手を振ってみせた。

そのまま、博雅は庭に面した廂の方へ歩いていった。

晴明と、亡き桂宮の姫とのことを知らぬというのは、余り正確ではなかった。

相談したいことがあるから、と頼まれて、晴明を姫に引き合わせたのは、博雅であったからである。

そして、その後、かの姫について、

「頭のよいお方だし、屋敷にはなかなか面白い連中が招かれていて、その話を聞くのも悪くはないが」

ささいな用で呼びつけるので、

「ちと迷惑しておるよ」

と晴明が、苦笑交じりにこぼしていたので、彼が姫の屋敷を訪れるのが一度や二度ではないらしいことも承知していた。

だが、二人は男女の仲であるか、と問われると、何ともはっきりしたことは、

「よくわからぬ」

のであった。

桂宮の一の姫は、幼い頃からよく知っているが、評判に違わぬ、才気に溢れた美しい姫である。

ただ、ひどく負けず嫌いなところがあるし、人のよい博雅などは、

「よく手ひどくやり込められて閉口するのだよ」

とちらと晴明にもらしたように、少々苦手な相手でもあった。

その姫と晴明がわりない仲であるというのは、博雅としては、何とも複雑なところなのである。

折りよく、明日の夜は晴明の屋敷を訪ねることになっている。

―さりげなく確かめてみるか。

そんなことを思っていると、

「中将さま」

暗い庭から呼びかける声があった。

「・・・?」

博雅が夜の暗闇を透かして見ると、篝火の光がようやく届くところに、ふうっと女が一人現われた。

暗い色の衣を纏っているので、身なりが判然とせず、下働きの婢女なのか、高位の女官なのか見当がつかない。

ただ、微かな灯りに、白い顔だけがぼうっと浮き上がって見える。

「お初にお目にかかります、中将さま」

「・・・どなたですか」

博雅は問うたが、紅い唇はにい、と笑うだけで答えない。

黒目がやたらに目立つ、暗い瞳でしげしげと博雅を見上げていたが、やがて、

「わかりませぬなあ」

軽く頭を振って、言った。

「安倍晴明さまは、神の如きお力とお持ちのお方」

皮肉な笑みが、紅く塗られた唇に浮かんだ。

「そのような尊いお方が、何故あなたさまのようなとるに足らぬ凡庸なお方と親しくおつきあいをなさるのか」

「・・・」

博雅は咄嗟に言われていることの意味が呑み込めず、ぼんやりと女の顔を見つめた。

「あなたさまは、晴明さまがお話なさること、おやりになっていることを、半分もお分かりではないのでしょう?」

―半分くらいはわかっておると思うが・・・。

博雅は内心思ったが、何故か口に出せなかった。

「相手のお方のこともわかってさし上げられないのに、どうして親しくなさっていると言えるのでしょう」

女の言葉に、博雅は大きく目を見開いた。

「晴明さまは、近頃、桂宮の姫と親しくお付き合いなさっているとか」

「・・・」

「あのように、優れて賢いお方ならば、晴明さまのことをすっかりわかってさし上げられるでしょう」

「・・・」

「そうすれば、いずれは、晴明さまもあなたさまのような愚昧なお方には見向きもされなくなるでしょうなあ」

紅い唇の笑みが更に深くなった。

博雅は、何か言おうと口を開いた。

しかし、女は深々と頭を下げると、すうっと闇の中に退いた。

後には呆然と立ちすくむ博雅の姿があるだけであった。



次の日の夕方、約束通り晴明の屋敷を徒歩(かち)で訪れた博雅を、蜜虫が出迎えたが、晴明は留守であった。

「お昼頃、桂宮さまの姫ぎみよりお使いがございまして」

「桂宮さまの・・・」

「必ず戻りますゆえ、博雅さまにはお待ち頂くように、と」

見れば、いつもの簀子に酒の用意もしてある。

「ふうん」

晴明の屋敷を訪れて、その帰りを待たされる、というのは、よくあることではないが、そう珍しいものでもなかった。

しかし、

「そうか・・・ならば、今日は帰るよ」

「お待ち頂けないのですか?」

蜜虫が目を丸くした。

「なに、また日を改めて来るよ」

博雅は殊更気安い調子で言い、屋敷を出た。

その日は、朝からどんよりと曇りがちであったのが、日の傾く頃からぱらぱらと雨が落ちてきたかと思うと、すぐに本降りとなった。

降りしきる雨は、堀川橋に佇んで、ぼんやりと暮れなずむ川の面を眺めている博雅の上に、さあさあと降りかかっていた。



続く


 

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