夜に惑ひて



 春もまだ浅い候であった。

日に日に柔らかく明るさを増してゆく春の日差しの下、大和路は、芽吹き始めた緑にふうわりと包まれていた。

「気持ちのよい日和だなあ」

寺の門前で車を下りた博雅は、うっとりと晴れた空を見上げた。

「なあ、晴明」

「何だ」

晴明は、足を止めて振り向いた。

「おまえが住持さまと話をしている間、おれはこの辺りを歩いておってもよいかな。・・・おれが行ってもお邪魔であろうし」

早春の心浮き立つ気配に、いかにもじっとしていられないという様子の博雅に、晴明は笑って、

「邪魔ということもあるまいが・・・おまえがそうしたいと思うならそれでよかろうよ。」

「おお、そうか、すまぬ」

博雅は、ぱあっと顔を輝かせ、今にも駆け出しそうな、軽い足取りで、野辺へと続く道を歩いて行った。

「やれやれ」

晴明は笑みを含んだ目でこれを見送ってから、寺の門を入った。

大和国の秋篠寺の老いた住持は、晴明の師、賀茂忠行と親交があり、忠行の死後も折りに触れては子の保憲を寺に招いて話相手をさせたがった。

保憲は例によって面倒がって、あれこれと口実を作って逃げ回っていたが、

たまりかねた古弟子の一人が、「これではご老体がお気の毒」と意見したため、渋々代わりに晴明を遣わそうと言ってやったのであった。

「やれやれ」

事後承諾の形で保憲から押し付けられた晴明だったが、秋篠寺の老住持は博識で知られていたし、

寺で所持している珍しい書物などを、その折りにでも見せてもらえれば、むしろ有難い、とそれほど嫌な顔をしないで引き受けた。

そして、たまたまふらりと屋敷に立ち寄った博雅を誘って、ともに大和国秋篠里へとやって来たのである。

「年をとると、寒さがこたえましてなあ」

と言って、この陽気でも火鉢を手放さない老僧は、とりとめなく交わされる、息子のような年の若い陰陽師との対話を楽しんでいるようであったが、ふと、

「そう言えば、昨夜不思議な夢を見ました」

「夢、でございますか」

「はい」

老僧はうなずいて、

「池がございまして、一面にそれはそれは清らかな白い蓮の花が咲いておるのです」

「ほう」

「その畔りに有難くも弥勒菩薩がお立ちになっておられましてなあ。辺りには、何ともめでたき楽の調べが流れておりました。」

見ると、大勢の天人たちがめいめいに笛やら琵琶やら笙やらを手に、菩薩の周りを囲むようにして、楽を奏でている。

「弥勒浄土でございますか」

「恐らくそうでしょうなあ」

晴明の言葉に、老僧はうなずいた。

「都卒天の内院と外院の有様であったのでしょう」

うっとりと楽の調べに耳を傾けていると、弥勒菩薩が、身につけていた衣の袖から透き通った水晶の宝玉を取り出した。

そして、傍らで琵琶を奏でていた天人に目をやった。

それは、ひときわ見目麗しい天女で、琵琶をその場に置くと、弥勒菩薩の前に膝まづき、頭を垂れて両の手を差し出した。

弥勒菩薩は手にした宝玉を天女の掌の上にそおっと載せた。

天女はこれを押し頂くようにしてから胸の前で持つと、それはえも言われぬような清らかな五色の光を放った。

「あの玉は何ぞ、と眺めておるうちに、目が醒めてしもうたのですよ」

「それは、何とも有難き御夢をご覧じられましたなあ」

晴明が言うと、

「後で気づいたのですが、かの宝玉を授けられた天女の御顔が、当寺に創建の頃より伝わる天人の御像にそっくりであったのです」

「ほう」

「それはそれはお美しいお姿の御像でしてなあ。昨夜の夢の天女がかの御像の天人であらせられるとすれば、これは伎芸天のお姿を象ったものであったかと」

「伎芸天」

「はい」

老僧はにっこりと微笑んだ。

「よろしければ御覧に入れましょうか」

「それは是非」

晴明が言うと、老僧は傍らに侍していた若い僧に命じた。

「晴明どのを金堂に御案内しなさい」



淡く霞のけぶる春の野に、軽やかな笛の音が響いていた。

まろやかな小丘の斜面の、若草の上に腰を下ろして、博雅が笛を奏でている。

少し離れた田で立ち働いていた数人の農夫が、思わず手を止めて聴き惚れていた。

ややって、己れの上に影が差したのに気づいて、博雅は笛を止めた。

見ると、どこから現われたのか、尼姿の女が一人傍らに立って、博雅を眺めていた。

いかにも気品ありげな佇まいで、頬のふっくらした白い顔は、若いとも老いているとも言えぬ、しかし何とも柔和で美しかった。

「あ・・・」

博雅は、思わず衣についた草の葉を払い落としながら、立ち上がった。

尼は柔らかく微笑んだ。

「よいお笛でございました、源博雅さま」

博雅は目を見張った。

「わたくしのことを御存知で・・・」

博雅の方では全く見覚えのない女人である。

「あなたさまのことは、この世に生まれ出でんとなさる時から存じ上げておりますのよ」

「そうなのですか?」

その時分に、本院の祖父の屋敷に仕えていた者であろうか。博雅は思った。

にこにこして博雅の顔を眺めていた尼は、不意にすうっと眉間を曇らせた。

「博雅さま」

「はい」

「お気をつけなされませ」

「・・・は?」

「お心を乱すような声に耳を傾けてはなりませぬ。」

「声?」

「あなたさまがまことに信ずべきものをお信じなさいますよう」

「それは何です」

「あなたさまご自身が一番よくおわかりのことですよ」

尼の言葉の意味が全く呑み込めない博雅が、なおも問いを重ねようとした時、

どこかでひときわ高く鶯の囀る声が聴こえた。

思わず、博雅が声の方へ目をやり、一瞬ののちに尼の方へ視線を戻すと、

「あれ?」

尼の姿は消えていた。



若い僧が厨子の扉を開くと、晴明は軽く目を見開いた。

「ほう・・・」

灯明の光に浮かび上がったのは、今まさに天から舞い降りてきた、という風情の、美しい天女が立っていた。

漆を固めた、いわゆる乾漆造の像で、色鮮やかな衣をまとい、少し腰をひねった姿が、何ともたおやかである。

しかし、何と言っても、頬のふっくらとした顔の、柔らかな美しさは格別であった。

「これは、まことに麗しい御像ですなあ」

晴明の賞賛に、案内の僧は慎ましくうなずいた。

「この地に都がございました頃、光仁の帝の御命にて当寺が創建せられました折より伝わる御像でございます。」

「そのように承っております」

晴明はうなずいた。

「おお、晴明、こちらにおったのか」

背後から声がしたので振り返ると、僧に案内されて、博雅がこちらにやって来る。

「博雅さま」

僧たちの手前、晴明は一歩下がって軽く頭を下げた。

屈託のない様子で晴明と肩を並べた博雅は、何気なく厨子の中を見上げて、思わず息を呑んだ。

「これは・・・」

「お美しい御像でござりましょう、中将さま」

晴明を案内してきた僧が得意げに言った。

「おう・・・まことにお美しいですなあ・・・」

博雅はそう言って、うなずいた。

が、帰りの牛車の中で、晴明は、ふと、

「秋篠寺の天人の御像がいかがしたのだ、博雅」

と問うた。

「いかがした、とは?」

「いや、おまえの様子が像の美しさに心を動かされただけとは思えぬようであったからな」

「・・・よくわかったな」

博雅は苦笑して、

「実はな、先ほど、おれが野で笛を吹いておったら、不思議な尼ぎみに出会うたのだよ」

と、尼に出会った時のことを語った。

「で、その尼ぎみが秋篠寺の天人の御像に瓜二つであったのだ。」

「ほう」

「おれはこの陽気だし、ふと、うたた寝などしてしまって、夢を見たのかと思うたのだが、あの御像の御顔が余りにもかの尼ぎみに似ておられたのでなあ。夢とは到底思えなくなってしまったのだよ。」

「ふうん」

晴明は考え深げな顔になった。

「やはり気のせいなのだろうな」

博雅が言うと、晴明は軽く微笑して、

「案外、おまえの笛に魅かれて、天人の御魂が御像を抜け出したのかもしれぬぞ」

「・・・おまえ、またおれをからかっておるな」

博雅は唇を尖らせた。

「からかってなどおらぬ」

「ならば、なぜ笑いながら言うのだ」

「笑っておるか」

「おる」

「それはすまぬ」

「知らぬわ」

博雅はむくれたまま、ぷんと横を向いてしまった。



続く


 ブツ(仏)シリーズ第2弾・・・というわけではござんせんが。

今回のブツ、秋篠寺の伎芸天像は「東洋のミューズ」とも呼ばれている美しい御像で、結構有名なので、ご存知の方も多いと思います。

お寺は平安末期に戦火で焼けてしまって、伎芸天像も天平時代の物は頭部しか残っていなくて、体の部分は鎌倉時代に追補されたもので、木製なんだそうです。

 

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