目を開くと、目の前に女の顔があった。

 唇のふっくらとし、目元のくっきりした美しい顔と見分けるより先に、己れが、その女の膝枕で寝ていることに気づいて、博雅は慌てて跳ね起きた。

「こ、これは、とんだ失礼を・・・!」

 そのまま、女の顔を見ないようにして、出来うる限り、女から離れた隅に飛んでいった。

 そこで手をついて深く頭を下げる。

「あらあら」

 女は面白そうに声を上げて笑い、

「構いませぬのよ。お手をお上げ下さいまし」

「しかし・・・」

「どうかお顔をお上げ下さい。中将さまのようなお方に、そのように畏まられてしまうと、わたくしが恐縮してしまいますわ」

 重ねて女が言うので、博雅は恐る恐る顔を上げた。

 そこは、小さな壷庭に面した一室であった。

 御簾が巻き上げられているので、壷庭がまるで池のように水を湛えているのが見える。

 先ほどの海の上の屋敷の一室のようであった。

 黄紅葉の襲の小袿に身を包んだ女は、高麗縁の畳の端の方に座している。

 その畳の上に、博雅は寝かされていたものらしかった。

 女に言われて半身は起こしたものの、博雅は女の顔をまともに見るわけにもゆかず、あらぬ方に視線を彷徨わせる。

 それから、

「わたくしは、一体・・・」

 水の中に落ちてしまったように記憶しているのだが、身に着けている物も髪も、少しも濡れてはいない。

 何かの弾みで気を失ってしまい、妙な夢を見てしまったものなのだろうか。

 混乱した博雅が、ぐるぐると考えを巡らせていると、

「ええ、海に落ちて溺れかけていらしたので、わたくしが助けてさし上げたのですよ」

 女の声が、急に間近で聞こえたので、博雅がぎょっとして見ると、いつの間にか、女は博雅のすぐ目の前に来ていて、艶かしい顔を博雅に寄せてきていた。

「・・・い・・・!」

 うろたえて体を引く博雅を、目を細めて眺める。

「まことに可愛らしいお方・・・」

 ほっそりした指で、博雅のほつれた後れ毛をかき上げて、

「おやすみになっておられる時は、まるで童のようで、余りにお可愛らしいので、ここに・・・」

 意味ありげに、白い指で博雅の唇に触れた。

 と、

「末君、末君や」

 襖障子越しに、隣の部屋から別の女の声がした。

 女はいたずらを見つけられた童のような顔で軽く首を竦め、博雅から体を離した。

「はあい、中姉さま」

 障子に向かっていらえを返した。

「ちと戯れが過ぎますよ、末君。そのように、博雅さまのことをからかってはなりませぬ」

 隣の声は、柔らかいが有無を言わせぬ口調である。

「はあい」

 末君と呼ばれた女は、もう一度首を竦めると、立ち上がって博雅に手を差し伸べた。

「申し訳ございませぬ。あれはわたくしの下の姉ですの。ご案内しますわ」

 何が何やらわからぬままに、博雅も立ち上がり、女の後に従って廊下へ出た。



 霧の中をどれほど歩いたであろうか。

 前を歩いていた鹿の子が立ち止まったので、晴明も足を止めた。

 式を羽根に戻して懐にしまうと、両腕を前に突き出した。

 すると、両の手のひらが堅い壁のようなものに触れた。

 そのまま、手に軽く力を籠めて、壁を押すと、

 ギギッ

 軋むような音がして、壁が動いた。

 すると、さあっと辺りの霧が晴れ、晴明はゆったりと水を湛えた池の畔に立っていた。

 と言っても、そこは戸外ではなく、頭上を仰ぎ見ると、板張りとも岩ともつかぬ天井が、どこからか射し込んでくる青白い光にぼんやりと照らし出されていた。

 池の方へ目をやると、中央に小島のように、雲霓縁の畳が浮かんでいて、そこに女が一人座していた。

 目鼻立ちのはっきりした、華やかな感じの美女で、面白そうな表情で晴明を見つめている。

 晴明は、水際まで歩み寄ると、女に声をかけた。

「たぎり姫のお妹ぎみですな。上の妹ぎみであらせられる?」

 女はくすくす笑った。

「いいえ、下の方ですわ、都の陰陽師さま。上の姉がたぎり姫ならば、わたくしはたぎつ姫、ということになりましょう」

「なるほど、多岐都比売命(たぎつひめのみこと)であらせられましたか」

 晴明は顔色も変えずにうなずいた。

「姉ぎみはあなたにお伺いすれば、博雅さまの居所がわかると仰せられましたが」

「あらまあ」

 たぎつ姫はいたずらっぽく微笑んだ。

「残念ですわね。つい先刻までこちらでお休みでしたのよ。」

「ほう」

 晴明は軽く眉を顰めた。言われずとも、辺りに漂う、姫の濃厚な香のかおりに混じって、確かに馴染みの香を感じ取っていた。

「して、今はいずこへ」

「下の姉の部屋はお連れしましたわ。」

 姫は、いかにも無邪気そうな笑顔で手にした扇をのべて、己れの背後を示した。

「姉の部屋はあちらです、晴明さま」

 それからすうっと立ち上がった。

 右手の扇をぱっと開いて高くさし上げてから、ひらひらと動かしながら振り下ろした。

 と、

 ごうという水音と共にたぎつ姫の右手の方に、ぐるぐると渦巻く水柱が立った。

 姫は、更に扇を左の方に高くさし上げ、またひらひらと振り下ろした。

 すると、今度は、左手の方に轟々と音を立てて水の渦巻きが立ち上がった。

「姉の部屋へは、ここを渡らねばゆけませぬ」

 姫はにこにこと微笑みながら、

「さて、お渡りになることが出来ますかしら?」

 そして、一層大きく扇を振り動かした。

 すると、二つの水柱は、海に立つ竜巻のように身をくねらせて、岸辺の晴明の方へ向かってきた。

「やれやれ」

 晴明は、苦笑に近い笑みを口元に浮かべ、懐から扇を取り出し、これをしゅっと広げると、己れの顔の前にかざした。

 扇を持つ右手を前にさしのべ、左手の人差し指と中指を口元にあてて呪を唱えた。

 と、二つの水柱は更に大きくうねったかとおもうと、

 ばしゃあっ

 勢いよく晴明のかざした扇に次々とぶつかってきた。

 そのまま轟々と凄まじい音を立てながら、扇に吸い込まれてゆく。

 が、晴明にはその勢いが伝わっていないのか、端然と立ち続けて微動だにしない。

 そうして、全ての水を吸い上げてしまったかのように、ぱたりと水柱が収まると、そこは壷庭に面した一室であった。

 壷庭には満々と水が湛えられ、日の光を反射してきらきらと水面を輝かせている。

 部屋の中央には、高麗縁の畳が敷かれ、たぎつ姫は澄ました顔でそこに座していた。

「あらあら」

 いたずらっぽい顔をして、首を竦めて見せる。

「姉ぎみの部屋はお隣ですかな」

 晴明が問うと、姫はあっさりうなずいた。

「ええ、お探しの方もそこにおいでになりますわ」

「それでは、失礼致します」

 晴明は、軽く頭を下げてから、ずかずかと姫の座る畳の脇を通り抜け、姫の背後の襖障子をからりと開いた。



続く


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