女の後について廂づたいに隣の部屋へゆくと、そこには御簾が下りていた。
振り返ると、青い海原が広がっている。
博雅が軽く息を詰めてしばらく海を眺めてから顔を戻すと、案内に立った女の姿はふうと消えていた。
代わりに御簾の向こうから声がかかった。
「申し訳ありませぬ、博雅さま。妹がおかしな趣向を致しました。お許し下さいまし」
先ほど会った屋敷の女主人―中君の声であった。
「ああ、いえ・・・」
何が何やらわからなくて、つっ立ったままの博雅に、中君は更に声をかけた。
「どうぞ、そちらにお座りになって、おくつろぎ下さいましな」
勧められるままに、そこに敷かれた高麗縁の畳に腰を下ろしてから、はっと気づいた。
「晴明・・・晴明どのはいずこに・・・」
博雅の問いに、中君は落ち着いた声で答えた。
「まもなく、こちらへ来られますわ」
「そうですか・・・」
物の怪にとり憑かれた、という姫ぎみの手当てをしているのだろうか、それにしても、一体、おれはどうして晴明をはぐれてこのように一人でおるのだろう、とまた博雅がぐるぐる考えていると、再び中君が声をかけてきた。
「博雅さま」
「は、・・・何でしょう」
「ぶしつけなお願いと存じますけれど」
「はあ・・・」
「博雅さまのお笛をお聴かせ下さいませぬでしょうか?」
「笛を・・・」
博雅は懐に手に入れて葉二がそこにあるのを確かめて、
「構いませぬが・・・」
「まあ、是非」
御簾の向こうで中君が弾んだ声を出した。
その瞬間、博雅は、その声にひどく聞き覚えがあるような気がした。
それは、懐かしくて、甘やかで、しかし、ひどく切なくて、苦しい・・・。
湧き上がってきた想いに突き動かされるように、博雅は笛を取り出して唇に当てた。
澄んだ笛の音が、たゆたう波の音としばらく戯れていたかと思うと、
御簾の向こうから、笛の音に合わせて琵琶の音が流れてきた。
不意に、
博雅は目を見開いて御簾の方を見やった。
思わず笛を唇から離れた。
「あなたは・・・」
「どうかお続け下さいまし」
博雅の問いかけに、柔らかな声が琵琶の音と共に被さってきた。
博雅は、琵琶の音に誘われるようにして、再び葉二を唇に当てた。
笛の音と琵琶の音が絡み合い、波の上にきらめく光のように明るく響き合いながら、海の上を渡ってゆく。
差し出された芙蓉の花、
月明かりに照らし出された白い顔、
同じ琵琶の音、
そして、―生成り。
博雅の頬を幾筋もの涙がつたった。
それでも、笛は、琵琶の音に引かれるようにして、乱れることなく、きらめくような音色を紡いでゆく。
ややあって、
御簾の向こう側のひとは、琵琶を奏でる手を休めぬまま、静かに語りかけてきた。
「博雅さま、
博雅さまも、よくご存知の通り、
人の心をいうものは、鬼という名で呼べば鬼となり、
神という名をつければ、神となるものでございます。
かつて、
一人の女の心が、怨みと憎しみの余り、
自ら望んで鬼と化しました。
なれど、
博雅さまは、その女を想う時、
まことにお優しい心で、
清らかな涙をもって、
追慕して下さった―」
琵琶の音に合わせて詠うようなその声に、耳を傾けながら、
博雅は、少しずつ意識が遠のいてゆくのを感じた。
遠ざかる意識の中でも、己れの笛の音が乱れぬのが不思議であった。
「かつて、自ら望んで鬼とならんとした女は、
博雅さまが優しき心でもって、
名を呼び続けて下さったおかげで、
優しき神となりました。
今はただ、博雅さまのお幸せのみをお祈り致しております。
どうか―」
そこで、ふうっと博雅の意識は途切れた。
晴明が部屋を隔てた襖をからりと開くと、
やはり部屋の中央に高麗縁の畳が敷かれ、女が一人座していた。
萩の襲の小袿姿で顔の前で扇を翳している。
その膝に頭をもたせかけて博雅が眠っていた。
「晴明さま」
女は扇で顔を隠したまま、そっと呼びかけた。
「中君さま・・・いちきしま姫―市木島比売命(いちしまひめのみこと)―であらせられますな」
「はい」
女がうなずく気配があった。
「晴明さまには、姉と妹が大変なご無礼を致してしまいましたわ。どうかお許し下さいまし」
「いえ」
晴明は苦笑した。
「わたくしもそこそこに楽しませて頂きましたゆえ」
「博雅さまが住吉の社にお笛を奉納されているのを耳に致しましたら、どうしてもお会いしたくて、お会いして申し上げたきことがございまして、お二人をここへお招きしたのですが」
いちきしま姫はため息まじりに、
「姉と妹がおかしな趣向をこしらえて、どう止めても聞き入れませぬゆえ、ついわたくしも手を貸すことになってしまいました。」
静かな声にかすかに忌々しげな調子が混じる。
「ですけれど、ほんの戯れとは言え、博雅さまを海にお落としするなど、知っておりましたら、決して手を貸しませんでしたのに」
「さようで・・・」
晴明はじっと姫を見つめた。
「して、博雅さまにお気持ちをお伝えすることはかないましたかな」
いちきしま姫はゆったりとうなずいた。
扇を持っていない方の手で、優しく博雅の髪を撫でた。
「晴明さま」
「はい」
姫は深々と頭を下げて、
「博雅さまをよろしくお願いします」
言ううちに、少しずつその姿が薄れてゆき、
そのまま空気に溶け込むように、ふうっと消えてしまった。
ふと目を開くと、目の前に晴明の顔があった。
「気がついたか、博雅」
晴明の声は、笑いを含んでいる。
今度は、晴明の膝枕で眠っていたようだ。
少し赤くなって、博雅が起き上がると、そこは粗末な小屋の中であった。
「使われなくなった漁師小屋であるらしいよ・・・」
晴明が言った。
「おれは夢を見ておったのかな・・・」
博雅が呟くように言うと、晴明はかぶりを振った。
「では、あの姫ぎみ方は一体・・・」
「大君さまは多紀理毘売命、中君さまは市木島比売命、末君さまは多岐都比売命・・・宗像の三女神であらせられる」
「宗像の・・・」
博雅は目を見開いた。
「では、天照大神(あまてらすおおみかみ)と須佐ノ男命(すさのおのみこと)のうけいの時に、須佐ノ男命の剣を噛み砕いた天照大神の息吹から生まれたという・・・」
「そうだ」
「何故そのようなやんごとなき神々が、このような・・・」
「いちきしま姫は、おまえが住吉の社に奉納した笛がお気に召したと仰せられていたよ。・・・おれは姉のたぎり姫に気に入られてしまったようだが」
晴明は苦笑した。
「あのような妙な趣向を凝らしたのは、たぎり姫とたぎつ姫の仕業だと、いちきしま姫は少々ご立腹であらせられたようだ」
「ふうん」
博雅はぴんとこない顔で聞いていたが、
「待てよ、晴明」
「なんだ」
「おれが笛を奉納したのは住吉の神であって、宗像の神ではないぞ」
「住吉の神も、宗像の神も、海の神であるからなあ」
「・・・そういうものなのか?」
博雅が胡散臭そうな顔をする。
「・・・と言うより」
晴明の目が笑いを含んだ。
「海の神というのはな、人々が航海の安全を願って、海が荒れたり、静まったりというようなことを司っている大いなる力に、住吉だの宗像だのと呼んで、つけた名のようなものだ」
「ふむ」
「つまり、人々の心が海を動かす力にかけた呪、ということになろうよ」
「また呪か」
博雅は顔を顰める。
「そういう意味では、住吉の神も宗像の神も、もとは同じものだ、ということになろうよ」
「・・・よくわからぬが、・・・つまり」
博雅は考えながら、
「おれが人々の航海の安全を祈って吹いた笛は、住吉の神に奉ったとしても、宗像の神にも届くということなのかな」
「まあ、そんなところだ」
「ふうん」
そこですうっと博雅の表情が沈んだ。
「おれは中君さま―いちきしま姫であらせられたのだな―と話をしていて、・・・姫が徳子どのであらせられるような気がしていたのだよ」
乞われて博雅が笛を奏でると、姫も琵琶で和した。
「その琵琶の音が、かの琵琶の音と同じであったような気がしたのだが・・・やはり思い違いであったか」
「博雅」
晴明は優しい声で、
「神というのは、人の心から生じた呪のようなものだ。・・・おまえが優しい心で想うたお方の御霊が、優しき神の化身となっておまえの前に現われたとしても、それは何の不思議もないことなのだよ」
博雅はじっと晴明の顔を見つめ返した。
黒光りするような瞳が、うっすらと涙を宿していた。
「・・・姫もそのようなことを仰せられていたような気がするよ・・・」
「そうか」
「うん」
戸板がなくなってしまってる小屋の入り口から、心地よい海風が吹き込んでくる。
海は、秋の日の光を受けて、ゆったりとたゆたっていた。
結
結局、大して波風も立たない展開で終わってしまって、少々尻つぼみ気味かしら・・・と反省しきりでございます。
徳子さまの成仏話ということで、「賜り物」の芝山弓子さまのSSとネタがかぶっちゃってるし。(-_-;)
でも、「生成り姫」のあの結末、ちょっと博雅には重いんじゃないか、という気はやはりしますね・・・。
それから、アマテラスとかスサノオとか、映画ともややネタかぶり気味なんですが、この話の下書きを書き上げたのは、Uの内容がわかるより前だったので、Uにケンカ売るつもりはないです、はい。(でも、「天照」とか打ち込むと、思わず、「ゆけ!須佐!アマテラスを喰らうのじゃあ〜」って呟きたくなってしまふ・・・)
あと、いろいろ解説が必要なのですが、そもそも宗像の三女神とは、記紀神話で、スサノオが「決して乱暴はしない」という盟約(うけい)をアマテラスと交わした際、アマテラスがスサノオの剣を噛み切った時にその息吹から生まれた神々です。その後、天孫降臨の際、アマテラスの命で筑紫国宗像に遣わされたとされ、現在、宗像大社の祭神とされています。特にたぎり姫(宗像大社の社伝ではたごり姫)の祭られている沖ノ島は「海の正倉院」と呼ばれています。行きたい。
また、推古天皇の頃、宗像の三女神が白い鳥に乗って、安芸国の宮島に降り立ったとされ、この地に三女神を祭神とする厳島神社が創建されました。
特に、いちきしま姫は芸能の神ともされ、弁財天と同一視されて琵琶を奏でる姿が流布するようになりましたが、「琵琶を弾く美女」ということでも徳子さまとイメージが重なる・・・というのはちと強引か。
一方、住吉大社の祭神は、イザナギノミコトが黄泉の国から戻って禊を行った際に生まれた神々で、こちらは男神ですが、宗像の神々と共に航海の守護神として尊崇され、畿内から瀬戸内海を通って大陸に向かう道筋には、住吉大社、厳島神社、宗像大社をはじめとして、住吉と宗像の神を祭る神社が数多く点在しているそうです。