はっとして晴明が振り返ると、博雅の姿は跡形もなく消えていた。
そして、辺りはもはや海の上の屋敷の明るい一画ではなく、薄暗く、ぼんやりとした霧に包まれている。
その霧の奥から感じられる気配に向かって、晴明は足を踏み出した。
足元は石畳のような感触で、素足にひんやりと冷たい。
構わず、2、30歩ほど歩を進めると、突然霧の中に人影が二つ浮かび上がった。
晴明が足を止めると、一方の影が声を発した。よく澄んだ女の声である。
「海松(みる)や、このお方はどなた?」
もう一つの影が一礼し、
「はい、都からいらした陰陽師の安倍晴明さまでございます」
答える声で、先ほどの使いの女と知れた。
「まあ、あの名高い安倍晴明さま」
初めに声を発した女が、手にした扇のようなもので軽く辺りを扇いだ。
すると、霧がすうっと流れて、二人の女の姿を露わにした。
一人は、繧繝縁の畳に座し、月草の襲の小袿姿で、見るからに身分ある女人といった風情である。
艶やかな黒髪を長く垂らし、少し寂しげではあるが、品のある面差しは大層美しかった。
海松と呼ばれた使いの女は、畳の傍らに、円座を敷いてこれに座している。
「ほんとうに、何と美しいお方でしょう。妹たちは、あの楽のお方にご執心だけれど、わたくしはこちらのお方がよいわ」
「姫さまの欲せられるままに」
海松は深く頭を下げた。
晴明は軽く眉を顰めた。概ね察しがついていたが、敢えて問うた。
「あなたは、どなたですか?」
女は婉然と微笑んだ。
「人はわたくしをいろいろに呼びますけれど・・・そうねえ、たとえば、たぎり姫、とか」
やはり、という顔を晴明はした。
「多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)・・・かの大国主命のおきさきであらせられる。」
「ほほほ」
たぎり姫は声を上げて笑い、手にした扇を打ち振った。
すると、再び霧が漂ってきて、女たちの姿を覆い隠した。
晴明は構わず、
「博雅さまはどこです」
霧の向こうの影に向かって問うた。
「さあ、どこでしょう」
霧の向こうから聞こえる声は笑いを含んでいる。
「この部屋のどこかにわたくしの妹の部屋への抜け道があるはずですわ。それを探し出して妹にお聞きなさい。」
すると、海松の声が、
「抜け道が見つからねばいかが致しましょう、姫さま」
「ほほほ、その時はこの美しい方はわたくしのもの」
たぎり姫の声はひどく艶めいている。
晴明はため息を一つついてから、余り品が良いとは言えない笑みを浮かべた。
「あなたさまの慰みものになる、というのも悪くはないかもしれませぬなあ」
「でも、お探しになるのでしょう?かの楽のお方を」
晴明は、それには答えず、懐から一本の鳥の羽根を取り出した。
それを宙にかざすと、軽い羽根は微かに震えていた。
「あちらより風が吹き込んでおりますな」
晴明は右手の方をちらりと見やってから、そちらへ向き直った。
それから、羽根を唇にあて、小さく呪を唱えてからぱっと宙に放った。
すると、羽根は目のくりっとした愛らしい女童に姿を変えた。
「鹿の子や、出口はどこだね」
晴明が訊ねると、式は可愛い声で、
「あい」
と返事をし、晴明の先に立ってちょこちょこと歩き出した。
「まあ、面白い」
たぎり姫は声を上げて笑ったが、晴明は、もうそちらへは目もくれず、式の後をついて霧の中へ歩み入った。