姫神の祀り
瀬戸の海は、あたかも大きな湖か池ででもあるかのように、静かであった。
秋の空は明るく晴れ上がり、その空のもとで海はますます深い藍色にたゆたっている。
「気持ちのよいところだなあ」
砂浜に足を止め、沖をゆく船の白帆を珍しそうに眺めていた博雅は、そう言って、背後の晴明を振り返った。
「ああ」
ゆっくりと歩み寄りながら、晴明は短く答えた。
「ここが難波津か」
晴明が足を止めて博雅と肩を並べて立つと、博雅はため息のようにつぶやいた。
「平城京に帝がおわした頃は、ここから大勢の遣使の方がたが、はるばる唐土の地を目指して旅立たれたのだなあ」
晴明は軽くうなずいた。
「そうだ。かの弘法大師さまも、ここから唐土の国を目指されたのだ」
「そうして、御仏の教えをはじめ、楽や書など、さまざまの物が唐土より伝えられたのだな」
博雅は言い、
「しかし、還ってくることができた方がたばかりではないな。」
「かの安倍仲麻呂どののようにか。」
「うむ」
うなずいた博雅の唇から、緩やかに歌が滑り出た。
―天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも
よく透る声を、風が沖へさらってゆく。
「さぞや、ふるさとの山やまを恋しく想われたであろうなあ」
博雅はつぶやくように言ってから、
「それに、海の藻屑と消えてしまわれた方も大勢おられた。・・・みな、住吉の神に船旅の安からんことを祈願してから旅立たれたのであろうに」
「おまえが先ほど楽を奉納した住吉の社だな」
「うむ」
この日の朝、博雅は摂津の国、住吉の社に招請されて、神前に龍笛を奉納したのであった。
たまたまその二日ほど前から、晴明も同じ摂津の四天王寺に用があって滞在していて、この日に都へ戻ることになっていたので、二人で落ち合って難波津でもゆるゆると見物しよう、ということになったのである。
博雅に着いてきた随身と舎人たちは、乗ってきた牛車と共に先に都へ帰らせていた。
少し離れた松林の中に、晴明の式の引く牛車を待たせている。
「菅公のご奏上のことがあってから、唐土への遣使のことは途絶えてしまい、今やかの国もまた滅びてしもうたが」
博雅は、荷物の揚げ下ろしや、人の乗り降りのため、沖に停泊する船と小舟でゆききするのに慌しく走り回る人々を眺めた。
「かの地とのゆききは決して途絶えてはおらぬ」
「西国から運ばれる品々も、この地で陸揚げされ、都に運ばれるのだ」
「うむ。賑やかなものだなあ」
そうして、二人がとりとめのない話をしながら、浜辺を歩き始めると、
「もうし」
声をかけてくる者があった。
二人が足を止めて見ると、いつの間に近寄ってきていたのか、壷装束の女が立っていた。
高家に仕える女房といった様子で、丁寧に頭を下げるしぐさにも品がある。
「急にお声をおかけしましたご無礼をお許し下さいませ。・・・もしや都からいらした安倍晴明さまではございませぬか」
「そうですが」
晴明は女の方へ向き直った。
「やはり、そうでしたか」
女は安堵したような顔になり、
「実は四天王寺の方へお伺いしたならば、既にお出かけになられたとこのことで・・・。お坊さまが難波津をご見物になるらしいと教えて下さいましたので、よもやと存じましたが、お探ししていたところでございます」
「ほう」
晴明は軽く眉を顰め、じいっと女の顔を見た。
「して、わたくしに用とは・・・」
「はい」
女は再び軽く頭を下げた。
「わたくしがお仕えしておりますのは、さるやんごとないお血筋の姫ぎみで、ここより少々南へ下ったところにお屋敷を構え、姉ぎみと妹ぎみとお暮らしなのでございます」
「ほう」
「実は、この夏頃より姉ぎみが何やら物の怪にとり憑かれましたようで、それはそれはひどいお苦しみが続いているのでございます」
「それはお気の毒に」
「近在のお坊さまや、陰陽師の方にお頼みしましても、全く効き目がなく、いかがしたものかと途方に暮れておりましたところ、四天王寺に名高き安倍晴明さまがおいでになると聞き、藁にもすがる思いで、こうしてわたくしが参った次第でございます」
「なるほど」
晴明は、表情のない目で女を見つめた。
女も注意深く表情を殺してじっと見返す。
「おいで頂けますでしょうか?」
晴明は、軽く顎を上げてからうなずいた。
「わかりました。ゆきましょう」
「・・・おれは、車で待っていようか?」
博雅が遠慮がちに口を挟んだ。
晴明が答える前に、女が問いかけた。
「源中将さまでいらっしゃる?」
「はい・・・」
「それならば、お差支えがなければ、ご一緒においで頂けませぬでしょうか?姫ぎみ方は、みな管弦がお好きで、よく中将さまのお噂をなさってますの・・・どれほど素晴らしいお笛を奏でられるのか、と」
「はあ・・・」
博雅は困惑した表情になった。
晴明はと言えば、わずかに首を傾げる風で、いつものように、
「ゆこう」
とは言わない。
しかし、
「おいで頂けませぬか?」
女がひどく落胆した様子になったので、博雅は慌てて、
「いえ、ゆきましょう。・・・他にこれと言うて用があるわけでもないし・・・なあ、晴明」
「・・・」
晴明ははっきりしない顔になったが、さりとてむげに退ける理由もこれといって見当たらない。
不承不承うなずいた。
「そうだな、ゆこう」
「おお、ゆこう」
そういうことになった。
車よりも舟の方が便がよい、と言うので、晴明と博雅は女に導かれるまま、舟着き場へ足を向けた。
大きな平底の手漕ぎ舟に、表情のない船頭が座っていた。
女と共に、晴明と博雅が舟に乗り移ると、船頭は無言で舟を漕ぎ出した。
静かな海面を、岸に沿ってしばらく漕いでゆき、鼻を一つ越えると、急に視界が開けた。
「ほう」
博雅は目の前の光景に目を丸くした。
晴明も、扇を口元にあて、軽く目を見開いている。
そこは静かな入り江であった。
広々とした渚に、立派な寝殿造の屋敷が建っていた。
屋敷を取り囲む塀はなく、折りしも、満ちてきた潮が屋敷の高い床下に入り込んでいるため、屋敷全体が海に向かってせり出しているように見える。
庭のあるべきところは、蒼々とした海原であった。
「変わった屋敷だな」
晴明が呟くと、
「まるで海に浮かんでいるようではないか」
博雅はため息をついた。
海に向かって西面して建てられた屋敷の、北の対から延びる回廊の先の釣殿が、舟着き場のようになっており、そこで舟から屋敷へと導かれた。
長い回廊を歩いてから、まず北の対に通される。
回廊の床板のすぐ下は水面であった。
「しばらくお待ち下さいませ」
女は、晴明と博雅をそこに待たせて、一人で奥に入った。
ややあって、
「こちらでございます」
と、二人を寝殿へ導いた。
母屋に入ると、潮の香りに混じって何とも芳しい香の薫りがし、御簾の向こうに女が座しているのが見えた。
「お二人をお連れ致しました」
使いの女が告げた。
晴明と博雅が、勧められて高麗縁の畳に腰を下ろすと、御簾の向こうから柔らかな声が語りかけてきた。
「安倍晴明さま、でございますね」
「はい」
晴明はいつものように口元にほのかな笑みを浮かべたままうなずいた。
「このたびはぶしつけなお願いにも関わらず、わざわざお越し下さって、ありがたく思っております」
「いえ」
「姉をどうかよろしくお願いします」
「お力になれるよう、手を尽くしてみましょう」
晴明は笑みを絶やさぬまま、淡々と答えた。
「では、こちらへ」
控えていた使いの女が案内に立った。
「こちらの姫ぎみ方は、ただ今お会い頂いた中君さまと、姉ぎみの大君さま、妹ぎみの末君さま、お三人の姉妹で、物の怪に憑かれてしまわれたのは、一番ご年長の大君さまなのでございます」
長い回廊を進んでいきながら、使いの女は二人に説明した。
足元に目を落とすと、回廊の床下で、波がゆったりとたゆたっているのが見えた。
日の光が水面に反射して、回廊の壁や天井にゆらゆらと動く明るい模様を作っている。
南の対まで来ると、女は足を止めた。
するすると御簾を上げると、部屋の中央に几帳が巡らされており、その隙間から、臥せっているらしい女の黒髪がちらと見えた。
「あちらにおられるのが大君さまでございます」
女が先に立って母屋に入るのに続いて、晴明と博雅が母屋へ足を踏み入れた瞬間、
足元がすとんと抜けたかと思うと、博雅は深い水の中に落ちていた。
床が抜けてすぐ下の海に落ちたようにも思われたが、頭上を覆っているはずの床板はなく、日の光が青く辺りを満たしていた。
が、鼻と口を水に塞がれてもがく博雅に、そんなことを顧みるゆとりなどあろうはずがない。
泳ぎの心得なぞないし、着ている物が重く体に纏わりついて身動きが取れない。
ただ闇雲にもがく博雅に、すうっと寄ってゆく影があった。
しなやかな体に白い衣を纏った女である。
白い魚のように、水の中で優雅に体をくねらせながら、泳いでいる。
長い黒髪がゆらゆらと水の中に広がっていた。
女は、もがきながら沈んでゆく博雅を脇から抱え、そのまま浮き上がった。
不意に顔が水面に出たので、博雅は思わず大きく息を吸い込んだ。
鼻孔に水が入って奥の方がつんと痛んだが、それと共に強い芳香が漂ってきた。
その香りを嗅いだ途端、博雅はすうっと意識を失った。
お察しの方もおられると思いますが、謎のお屋敷のイメージは、安芸の宮島の厳島神社です。
最初は、本当に宮島を舞台にしようと思ったんです。(あの社殿自体は、平清盛の時に出来たものなんですが)
が、どうしても二人が安芸まで出かけてゆくうまい理由が浮かばなかったので、大阪にしました。
住吉大社ってのも、ちょっとポイントなので。