葉二記

すがに葉月も半ばとなると、残暑が厳しいとはいえ、日が落ちればずい分と過ごしやすくなってくる。

昼間の熱気を孕んで重たげに生い茂った夏草の間を、夜気をつむぎ出したかのような涼しげな笛の音が通り抜けてゆく。

二曲、三曲と奏でてから博雅が笛を唇から離すと、片膝を立て、簀子の柱に背中をもたせかけた例の姿勢で聴き入っていた晴明が、伏せていた目を上げた。

「よい音だ」

「うん」

博雅は嬉しそうに微笑して、手の中の葉二を見下ろした。

「これは、まことによい音の出る笛だ」

道具を褒めたわけではないのだがな、と晴明はこっそり苦笑した。

すると、

「そう言えば」

博雅がふと目を上げて、

「おまえには、この笛を手に入れたいきさつのことは話しておらなかったなあ」

「おお」

晴明は笑みを口元に残したまま、

「我らが知り合うた時は、既におまえはその笛を持っておったな」

博雅はうなずいた。

「何しろずい分昔の話でなあ。おれが二十になるかならぬかの頃であったが」

思い出すような目つきになって、

「何とも不思議な話でな。誰も信ずるまいと思うたから、誰にも語らぬうちに時がたってしまって、おれも半ばは忘れてしまっておったよ」

笛を持ち上げて、今さらのようにしげしげと眺めた。

「いや、というより、そもそも何が何やらわかっておらなかったのだな。それはこういうことぞ、と解き分けてくれそうな知り合いがなかったのだ。まだ、おまえと出会う前であったからな」

博雅はにっこりと笑みを深くして晴明を見た。

「おまえと知り合うておったら、いろいろと分かることもあったのだがなあ」

晴明は少し眩しそうな顔になって、

「ならば話してみろよ。今でもわかることがあるやも知れぬぞ」

と促した。

「うむ」

博雅はうなずいて、ぽつりぽつりと話し始めた。

「あれは秋の候であったかなあ・・・」



その頃から、博雅は、月や花の香りに誘われて、笛を吹きながら巷をそぞろ歩く習癖があったのだが、ある月の美しい晩、朱雀門の辺りを笛を吹きながら歩いていると、前方から同じように笛を吹きながら歩いてくる、直衣姿の人物がある。

二つの笛は近づくうちに、いつしか感応して響き合い、互いに和して、この世のものとは思われるような美しい音を奏で始めた。

やがて二人はすれ違ったが、互いに軽く目礼を交わしたのみで、笛をやめぬまま、離れていった。

そんなことが、幾晩も幾晩も続いた。

そして、ある夜のこと。

やはり、美しい望月の夜であった。

博雅が笛を吹きながら朱雀門の辺りにさしかかると、この夜は直衣の男は現われなかった。

その代わり、朱雀門の階の上に、山吹色の水干を纏った童が立っている。

門の前まで来た博雅は、思わず笛を唇から離し、童を見上げた。

「もし・・・」

博雅が声をかけようと口を開くと、童はぽんと地面を蹴って宙に舞い上がった。

そのまま、ふわりと階を飛び降り、とんと博雅の前に立った。

白い顔は、この世のものならぬ美しさであった。

目を丸くしている博雅の顔の前に、白い指を二本突き出した。

紅い唇の端がつり上がって、にいと微笑したかと思うと、

ぽん

とその指で博雅の額を突いた。

博雅の意識は、そこでふうと途切れた。



気がつくと、そこはどこぞの屋敷の一隅であるようであった。

簾は巻き上げられており、広い中庭が見渡せた。

どれほどの間気を失っていたものか、月はまだ高く、青白い光が庭の前栽の上に降り注いでいる。

屋敷を出た折に身に着けていた直衣姿のまま、夜具の上に寝かされていた博雅が、起き上がってきょろきょろと見回していると、

「お目覚めになられたか」

爽やかな声がしたかと思うと、どこから現われたのか、いつの間にか傍らに直衣姿の若い男が座していた。

見ると、先夜来、朱雀門の辺りですれ違った人物に違いない。

どことなく、先ほどの童に似た、眉目の秀麗な人物である。

博雅は訳の分からぬまま、

「ここは・・・」

と尋ねた。

「我が屋敷だ。そなたと心ゆくまで笛を奏でたいと思い、少々強引かと思うたが、お連れ申した。・・・ご迷惑ではなかったかな」

「いいえ・・・」

博雅は困惑したままかぶりを振った。

「そうか、それはよい」

男はにっこり笑うと、ぽんと一つ手を叩いた。

すると、二人の間の床に、どこからともなく白米の強飯に吸い物と干し鰯を添えたものを載せた高杯がぱっと現われた。

「腹が減っておられるであろう?」

言われて、博雅は、ひどく空腹であることに気づいた。

まるで、まる一日何も口にしていなかったかのようであった。

恐縮しながらも、博雅が箸を動かしている間、男はふらりと立ち上がって、廂へと出て行った。

こちらに背を向けて、庭を眺める風である。

そそくさと食事を終えた博雅が、後を追って廂に出ると、そこには、灯火が点され、円座が二つしつらえてある。

男は、博雅が廂に出てくると、無造作に円座の一つに座り、月の光を青く満たした庭に向かい、懐から龍笛を取り出して、唇に当てた。

すうっと音色が紡ぎ出され始める。

立ち尽くしていた博雅は、そのえも言われぬ音色に耳を傾けるうち、やがて心の動かされるまま、己れも男の傍に腰を下ろし、懐に入っていた笛を取り出して奏で始めた。

二つの笛の音が絡み合い、戯れあうかのように響き合って、庭に流れ出てゆくと、

「・・・!」

博雅は笛を唇から離さぬまま、大きく目を見開いた。

前栽の間から、蒲公英の綿毛のようなものが無数にふわりふわりと浮き上がってきたかと思うと、やがてそれは白く光る蝶の姿となり、笛の音に合わせるかのようにひらひらと舞い始めた。

そのうちに、幾つかの蝶が重なっては一つとなり、また重なっては一つとなるうちに、ぼうと白い人影となり、

気がつくと、庭では、白い衣を纏った5人の乙女が白い扇子を手に、ゆるゆると舞い踊っていた。

その乙女たちの姿も、やがて月の光の中に溶け込むように消え、

いつ果てるとも知らぬように、二つの笛の音だけが庭いっぱいに広がってたゆたっていた。



男が笛を唇から離したので、博雅も笛を止めて大きく息をついた。

「よい音であった」

男は満ち足りたように微笑した。

「ただ今の、あれは・・・」

夢見心地のまま、博雅が問うと、

「あの者たちもそなたの笛が気に入ったようだ」

男は謎めいた答えをし、博雅の手の中の笛を見やった。

「それは、まことよき音のする笛だが、銘はなんと・・・」

博雅は己れの手元に目を落とした。

「『初音』と申します」

「ほう」

男は、己れの手にした笛を差し出した。

「是非試したい。・・・この笛と取り替えてみようと思うが、いかがかな?」

「ええ、構いませぬ」

二人は笛を取替え、いま一度己れの唇にあてた。

再び、煌くような二つの笛の音が、比類なき調和を奏でながら辺りを満たしていった。

すると、今度は、天から雨のように煌く金色の光が降り注いできた。

そして、それは途中で無数の小さな金色の鳥の姿と化し、楽しげに戯れながら、庭を舞った。

やがて、一羽の鳥が再び糸のような光に姿を変え、すうっと消えると、また一羽、また一羽と、次々と姿を消してゆき、

まもなく庭には月の光と二つの笛の音が緩やかに漂うのみとなった。

「何とよい笛でしょう」

笛を唇から離した博雅は、感嘆の吐息をついた。

「銘は・・・」

男はゆったりと微笑し、短く答えた。

「葉二」

「はふたつ・・・」

博雅は、いま一度笛を見た。

確かに、紅い葉と青い葉、二枚の葉が彫り込まれている。

見つめるうちに、すうっと目の前が霞んできた。

「・・・ん?・・・」

慌てて目をこすったが、そのまま意識がすうっと遠のいていった。



次に目覚めた時には、やはり同じ寝殿の一室に寝かされていたが、外はもうすっかり明るくなっていた。

人の屋敷で眠り込んでしまったか、と博雅は慌ててはね起きて、廂に出た。

が、庭や対屋を見回しても、人の気配が全くない。

「どなたか、おられませぬか」

よく透る声で幾度か呼びかけたが、何のいらえもない。

博雅は、仕方なく渡殿を通って、対屋へと足を運んだ。

廂からひょいとのぞくと、少し奥まったところに、几帳が一つしつらえてあって、ほんのりとよい香のかおりが漂っていた。

几帳の端から、袿の裾がのぞいているので、その向こうに女性が座しているらしいのがわかった。

どうやら、やんごとない身分の方のようである。

「もうし」

博雅は、恐る恐る声をかけた。

「・・・こちらの姫ぎみでいらっしゃいますか?」

しかし、几帳の向こうからは何のいらえもなかった。

聞こえなかったのか、と2、3歩歩み寄ってからまた声をかけたが、几帳の向こう側からは何の反応も返ってはこなかった。

―恥ずかしがっておられるのであろう。

高貴な身分であるらしい姫ぎみに、迂闊に声をかけた己れの無作法を恥じ、博雅は黙って頭を下げてから、廂に出た。

何気なく庭に落とした目に、ひとむらの萩の花が映った。

今を盛りに、白い花を咲かせて、そよそよと風に吹かれている。

―何と清らかな・・・

博雅は、思わずその場に腰を下ろして、白い花に見入った。

「このような、美しき白萩の花は見たことがございませぬ」

背後の几帳に声をかけずにはいられない。

しばし眺めているうちに、和らかな秋の日差しと心地よいそよ風、清楚な白萩の花とに、何ともよい心地となって、自ずと懐の笛に手が伸びた。

取り出してみて、おのが笛でなく、「葉二」という昨夜の男の物であることに気づいたが、そのまま唇にあてた。

そよ風に揺れる優しい花のような、和らかな音色が滑り出し、辺りを満たした。

しばし、じっとおのが笛の音に身を浸していた博雅は、ふと背後からかすかに人の声がするのに気づいて、笛をやめて振り返った。

几帳の向こうから、女のすすり泣きの声が聞こえてくる。

「いかがなされました。」

博雅は慌てて几帳に歩み寄った。

「我が笛がお気に障りましたか。・・・もう吹きませぬゆえ、そのようにお泣きにならないで下さい」

おろおろと声をかける。

すると、ざっと衣ずれの音がしたかと思うと、几帳の端からのぞいていた袿の裾がすっと引かれ、ぱたぱたと柔らかな足音と泣きじゃくる声と共に、人が走り去ってゆく気配がした。

呆然と立ち尽くしていた博雅は、やがてしょんぼりと肩を落とし、とぼとぼともといた寝殿へと戻って、廂に腰を下ろした。

博雅にとって、楽を奏でるということは、息を吸うことと同じことであった。

そうせねば、息が詰まって死ぬやもしれぬのだ。

上手であるとか、下手であるとか、人に褒められるとか、けなされる、とかいったことには余り関心はなかった。

幸い、今上の帝は博雅の楽が気に入って、宮中での御遊のたびに彼を召し出す心積りである、とさる筋から聞かされてはいるが、その一方で、「敦忠卿が亡くなってからは、あのような軽輩が大きな顔をするようになったのだから、世も末よ」と聞こえよがしに中傷されたこともあった。(※)

もちろん、博雅自身には思いもよらぬことであったが、―そんなことを言われても、やはり叔父上はご立派な方であったからなあ、などと感心しているくらいであるのだから―そんなものは、帝の血を引く源氏の者が頭角を現わすことに好意を持たない藤原の者たちの根も葉もない嫌がらせであったのだが。

しかし、笛を吹いて、泣いて逃げられる程嫌がられたのは初めてのことで、さすがの博雅もひどく落ち込んでしまったのである。



―そこまで話して、博雅は口をつぐんだ。

晴明が顔の前で広げた扇の陰で、くつくつと笑っているのに気づいたのである。

「何がおかしい」

唇を尖らせて問うと、晴明は笑いを含んだ目だけをのぞかせて、

「いや、おまえらしいと思うてな」

「笑うことはないではないか!・・・おれは姫がおれの笛を嫌って逃げたのだと思うて、真剣に悩んだのだぞ」

博雅は抗議した。

晴明はなおもくすくすと笑いながら、

「まあ、よいではないか。先を続けてくれ」

「よくはないぞ」

博雅は、晴明が笑うのを止めないので、なおも唇を尖らせたが、渋々話を続けた。




がっくりとうなだれているうちに、うたた寝でもしてしまったのであろうか。

博雅がふと気づくと、いつのまにか日が暮れていた。

振り返ると、部屋の灯火台に灯りが点され、昨夜の男が立っていた。

「あの・・・」

博雅が声をかけようとすると、男の方が先に口を開いた。

「そなたに頼みたきことがある」

「頼み?」

「本当は、そなたにはいつまでもここにいて頂いて、我と共に笛を吹いて頂く積りであったが、それでは、さる筋よりお叱りを受けるのでな」

「はあ・・・」

いつまでも、というのは困るな、などと博雅が考えていると、

「実は、さる女人をある所まで送り届けて頂きたいのだ」

「女人?」

「昼間そなたが笛を聴かせてやった、東の対の女人だ」

「・・・しかし、あの方は・・・」

「あの女人は、ひどく恐ろしい目にあったために、少し気が触れてしまったのか、物も言わぬ、泣きも笑いもせぬ、ただ、じっと座っているばかり、という有様であったのだ」

「・・・それは、おいたわしい・・・」

「だが、先ほどそなたの笛を聴いてからは、少し正気に戻ったようでな、泣きながら、屋敷に帰りたい、あの美しい笛をいま一度聴きたい、とそればかり言うので、それを二つとも叶えてやろう、というのだ」

「・・・」

「ご心配には及ばぬ。途中まで迎えの者が来る手筈になっておる。そなたは、ただ女人の車の横について笛を吹きながら歩いてゆかれるとよい。女人を迎えの者に引き渡したら、月の見える方に向かって10歩歩まれよ。さすれば、そなたのよく見知ったところへ出ようぞ」

「わかりました」

どうにも話が呑み込めないが、断る理由も別段ないので、博雅はうなずいた。それに、昼間会った姫が博雅の笛を嫌って逃げた訳ではない、と知って、嬉しくもあった。

「では、我についてこられよ」

男の導かれるままに、屋敷の門前に出ると、そこには女車がしつらえてあり、袿の裾が後ろの簾から覗いていた。

車には黒い牛が繋がれ、壷装束の女が一人従っていたが、他には従者や牛飼童らしき姿は見えない。

「笛を」

促されて博雅は葉二を唇にあてた。咄嗟のことで、男と笛を取り替えたままであったことを失念した。

「では、やってくれ」

目を伏せ、笛の音にじっと耳を傾けながら、男が命ずると、牛は導く者がないまま、ゆっくりと歩みを始め、

ごとり

と車が動き出した。

博雅も笛を吹きながら、これに従って歩みを進める。

そこは、山間の道であった。

木々の梢に阻まれて月の光は届かず、鼻の先も見えぬ闇であるはずであったが、何故か車の周りだけはぼうと明るく、足元も暗くなく、博雅の目にも。己れと並んで進む車と、これを引く牛、博雅の前を無言で歩く女の姿ははっきりと見えたのである。

半刻ほど歩いたであろうか、行く手に小さな灯りが見えた。

それは段々とこちらへ近寄ってきた。

すると、

ガタン

と車が止まった。

牛が歩みを止めたのだ。

いついなくなったのか、目の前を歩いていた女がいない。

博雅は、立ち止まってから、笛を唇から離し、こちらへ近づいてくる灯りにじっと目をあてた。

灯りは近づくにつれ、篝火の光であることが見てとれた。

篝火を手にした人物は、やがて車の前に来ると、足を止めた。

辺りが余りに暗いため、博雅からは、ぼんやりと輪郭の浮かぶ人物の、篝火を持つ腕しかはっきりとは見てとれない。

それが、白く、またほっそりした腕であったので、博雅は咄嗟に女かと思ったが、

「右大将さまの姫ぎみであられましょうか」

聞こえてきたのは細く高い声ではあったが、どちらかと言うと、声変わりの間近い少年の声であるように聴こえた。

「右大将さまの姫ぎみかは存知ませぬが、こちらの姫をお送りするよう、さるお方に頼まれて参りました。」

博雅が答えると、傍らの車の中から、

「はい、右大将は我が父でございます。」

か細い女の声が漏れてきた。

「よろしゅうございます。右大将さまのお使いでお迎えに参りました。姫をお屋敷までお送り致します」

「ありがとうございます・・・」

姫の声は迎えの少年に向けられたのか、それとも博雅に向けられたものか。

「お気をつけて」

博雅が優しく声をかけると、車はゆっくりと動き出し、篝火に先導されて、闇の中へと進んでいった。

ぼんやりと見送る博雅の耳に、闇の中にゆらめく篝火の方から、迎えの少年が呼びかけてきた。

「先ほどの笛は、あなたさまが?」

「はい」

博雅が少し声を張り上げて答えると、遠ざかる篝火からは、

「よい笛でした―」

と微かに答えが返ってきた。

暗闇に取り残された博雅が、ふと見上げると、右手の方に欠けはじめた居待月が浮かんでいた。



続く


(註)

※コミックの1巻でも桜の精が博雅のことをバカにする時にネタにされていた『大鏡』の記事をもとにしています。「敦忠卿」とは、藤原時平の三男、藤原敦忠。つまり、博雅の母方の叔父にあたる人です。百人一首の「逢ひみての」の作者としても有名。要するに何でもできる人だったみたいですね。

ちなみに、藤原敦忠が亡くなったのは、博雅が25才の時、というのが公式で、二十そこそこだったというのは嘘です。

帝も村上天皇じゃないかもしれませんが、まあ突っ込まないでやって下され。

なつきさまの2000ヒットキリリクでございます。

キリリクなのに、また前後編です。リク消化しきれそうでしょうか。(ドキドキ)

元ネタは『十訓抄』の葉二に関する説話。

映画では、晴明と出会う前に博雅はもう葉二を持っていましたが、原作はどうなんでしょうね。

INDEXへ 小説INDEXへ