「・・・で、言われたように、その月に向かって10歩歩いて顔を上げたら、何とそこは朱雀門の前であったのよ。」
博雅は言い、帰ってみると、丸二日屋敷を空けていたことになっており、まだ存命であった母や、乳人の萩生にひどく叱られた、と苦笑した。
「ふうん」
晴明は、ひどく面白そうな顔になっていた。
「なあ、晴明。これは一体どういったわけであったのだろう」
その後も、望月の折りには朱雀門の辺りでかの男とゆき違ったが、笛を戻さんとどちらからも言い出すことはなく、結局そのままになっている。
「要するに、おまえは朱雀門に棲む鬼に拐された、ということなのさ」
「鬼に?」
「朱雀門の楼上にはな、朱呑童子という鬼が棲んでいるのだ。おまえとおまえの笛が気に入って、陰態に引き込んだのよ。・・・それは鬼の笛だ」
「鬼の・・・」
「それから、先の右大将の姫ぎみの一件は、おれがよく知っている。」
「おまえが?」
博雅は目をぱちくりさせた。
「確かお体が弱くて、しばらく前に亡くなられたことは聞いたが」
あれ以来、かの姫に、博雅は会っていない。
「・・・何故あのようなことに。第一、何故おまえが知っているのだ。」
「まあ聞けよ」
そう言って、晴明は語り始めた。
その頃は、まだ晴明の師の賀茂忠行は存命で、賀茂保憲は既に正式な官人として陰陽寮で働いていたが、晴明は未だ弟子として忠行に師事する身であった。
ある日、忠行のもとに行方知れずになったさる姫ぎみを探してもらいたいという依頼が、内々に持ち込まれた。
藤原氏の一門で、右大将の地位にある人の姫である。
話を聞いてみると、これが尋常なことではない。
姫の住む屋敷は、四条大宮の辺りにあるが、いつの頃からか、夜な夜な、朱雀門の方向から笛の音が聴こえてくるようになった。
そして、望月も間近なある夜のこと、やはり聴こえてきた笛の音にじっと耳を傾けていた姫が、
「どのようなお方が、あの笛を奏でているのか見てみたい」
と、言い出し、早速女車をしつらえ、二人の舎人がこれに従って、笛の音の聴こえる方角をさして出かけていったのである。
それきり、夜が更けても戻ってこない。
心配した家人が様子を見に行ってみると、神泉苑の西北の隅に面した、壬生大路の辻に、姫が乗っていった車がうち捨てられていた。
車の近くには、何者かに斬られたらしい、二人の舎人と牛飼童が息もたえだえに横たわっている。
車を引いていた牛はどこかへ行ってしまった。
が、姫がどこにもいない。
怪我をした舎人たちを屋敷に運んで介抱すると、何とか命は取りとめたので、話を聞いてみると、夜盗に襲われたのだと言う。
相手は一人であったのだが、肝の据わった男で、まず一刀で舎人の一人を斬り、返す刀でもう一人も斬り倒した。
そして、逃げようとした牛飼童を背中から斬って倒した。
二人の舎人は、腰に帯びていた太刀に手をかける暇すらなかったと言う。
そして、深手を負わされ、気を失ってしまったので、その後、車の中にいた姫がどうなったのかは分らずじまいであった。
盗人に拐されたのであろう、と思われたのだが、それから程なくして、その盗人が検非違使によって捕らえられるところとなった。
姫の車を襲い、舎人たちを斬ったのは認めたが、姫を連れ去ってはいない、と申し立てた。
舎人たちを斬り捨てたあと、牛を解き放ってから車の中に押し入った。
姫は両袖で顔を覆い、車の隅に蹲って震えていた。
盗人がずかずかと近寄って容赦なく姫の腕を掴んで乱暴に引き寄せると、若く美しい姫であったので、喜んで車から引きずり出し、その場で手籠めにしようとした。
姫は地面に投げ出されたところで、恐ろしさの余り声も立てずに気を失ってしまった。
―そこへ、その笛の音が流れてきたのである。
姫が誘われた笛は、盗人の襲撃の間にも途切れることなく流れていたのだが、その音にかぶさるように、別の笛の音が聴こえてきたのだ。
美しいが、どこか人を幻惑するような妖しい音色の、先の笛とは違い、よく澄んだ、素直で涼しげな音色であった。
聴く者の心にまっすぐ沁み込んでくるような音色であった。
「その笛の音を聴いておったら、もう涙が止まらず、体から力が抜けたようになってしもうて・・・」
盗人は、その音を思い出しただけでも心が揺さぶられると言わんばかりに、ほろほろと涙を零しながら、語った。
荒々しく猛っていた心も鎮まり、とても女を犯すような心持になれず、気を失った姫を置き去りにしたまま、ふらふらとその場を立ち去ったのだと言う。
検非違使庁の役人は、すぐには盗人の話を信じず、姫を拐してどこかに隠しているか、或いは殺してしまったかしたのであろう、と問い詰めたが、盗人が他にも人殺しや物盗りを重ねていたことを洗いざらい白状したのに、右大将の姫のことだけは頑として先の話を繰り返すので、どうやらこれは真のことであろう、ということになった。
だが、肝心の姫の行方が知れぬままである。
右大将家では、あるいは妖しの類に浚われたのかもしれぬ、と思い余って賀茂忠行を頼ってきたのであった。
右大将家よりの使いが帰った後、忠行は少し思案をしてから、晴明を呼んだ。
「こたびの右大将の姫ぎみが一件、そなたは大方目星がついておるのではないか」
若い晴明は、若さに似合わぬ笑みを女のような口元に浮かべた。
「ええ、まあ」
「やはりな」
忠行は苦笑した。
「わしは帝より内々に持ち込まれた厄介ごとがあってな。ちと手が離せぬ。こたびの件はそなたに任そう。」
「は」
晴明は軽く頭を下げた。
忠行がやんごとない筋からの頼まれごとを若い晴明に任せたことは、他の弟子たちに快くは受け取られなかったようであった。
「さすが、狐が子よ。同じ妖しの心はようわかるであろうと師も思し召しなのであろうよ」
晴明が屋敷の中を歩いていると、廊下で立ち話をしていた兄弟子たちの中から聞こえよがしにそんなことを言う声が聞こえ、どっと笑い声が起こった。
晴明は足を止め、そちらへ向き直った。
そして、ぎょっとした一同に向かってにっこりと微笑むと、丁寧に頭を下げてから、優雅な身のこなしで袖を翻し、すたすたと歩み去ったのである。
この屋敷で、晴明に隔意を持つことなく接してくれるのは、師の忠行と、その子保憲だけであった。
それとて、同じ力を持つ者同士の共感の域を出ず、心底打ち解けた間柄とは言えなかった。
いや、この世に生まれ落ちて以来、未だかつてそのようなものがあった例しなどなかった。
そして、その頃の晴明は、心の底から打ち解けあえる存在などというものは、己れとは生涯縁のないものであろうと、軽く首をすくめて思っていたのである。
暗くなってから、晴明は師の屋敷を出た。
行く先は朱雀門である。
階を上がって楼門の下に立っていると、しばらくしてから頭上から声が降りてきた。
「陰陽師か」
晴明は、声のする方へ顔を上げたが、うっすらと微笑するだけで何とも答えなかった。
「ふん」
苦笑するような声と共に、ふうわりと影が舞い降りてきた。
浅葱色の水干を纏った男童である。
「朱呑童子どの・・・であらせられまするな」
晴明が尋ねると、童はまたふんと笑った。
「好きなように呼ぶがよい。賀茂忠行の藍より出でた青よ、いかなる用じゃ」
「さる月の明るい夜に、朱呑童子どのがお笛に惑わされて姿を消した姫ぎみを探しております」
童の口元の笑みが深くなった。
「確かに、誰ぞ、見目よくて色好みの女が誘い出されてくれば、我がものと致したいと思うて吹いてはおったが、途中でどこぞの野良犬に獲物を横取りされてしもうてなあ」
「しかし、その野良犬は獲物を喰らわなかった」
「まあな」
童は渋々うなずいた。
「なかなかよさげな女が道端に打ち捨てられておったのを、折角なのでわが屋敷に連れ帰った。・・・しかしなあ」
さも残念そうに、
「よほどこわい思いをしたのであろう、少々気がふれてしもうて、目覚めても、物も言わぬ、泣きも笑いもせぬ。ただじいっと座っておるばかりでな。・・・そのような女を抱いても面白くも何ともないので、指一本触れてはおらぬよ。身の周りの世話をする者をつけて屋敷においてあるがな」
「お役に立たぬのなら、親元にお返ししてもよろしゅうございましょう」
「そうよの」
童は白い歯を見せた。
「考えてみよう。・・・明日の夜、またここへ来るがよい」
「よいお返事を期待しております」
晴明は慇懃に頭を下げた。
「ははは」
童は苦笑の混じった笑い声を残し、ふっと姿を消した。
次の夜、約束通り、晴明が再び朱雀門の袂に出かけると、朱呑童子はすぐに現われた。そして、
「女は親元に帰してやることにしよう」
「それがようございます」
「しかし、このおれが自ら屋敷へ送ってゆく、というわけにもゆかぬでな。幸い一人信頼できる者がおる。その者に途中まで送らせるので、明日の夜、老ノ坂の辺りまでぬしが迎えに来てはくれまいか」
「かしこまりました」
軽く頭を下げた晴明は、それから、ふと、
「かの折りに、姫を襲うた盗人は、朱呑童子どのとは別の笛の音に改心させられたという話でございますが、・・・その笛の主に心当たりはおありですか?」
すると、朱呑童子は意味ありげな笑みを浮かべた。
「慌てるでない、慌てるでないぞ、若い陰陽師よ。めぐりあうさだめの二つの星は、時が来れば必ずめぐり逢うであろうからな」
謎めいた言い回しに、晴明は眉を顰めたが、敢えてそれ以上は問いを重ねなかった。
翌日、晴明は、師の忠行に、首尾よくゆけば右大将の姫ぎみを今夜のうちに連れ帰ることができるであろう、と告げた。
忠行は感心したように頷いて、
「右大将家にはそのように使いをしよう」
と言った。
そして、晴明は、日が西に傾く頃、屋敷を徒歩で出た。
五条大路を西に向かい、天神川、桂川と渡ると、丹後との国境に向かって、街道を歩いた。
途中で日が暮れたので、用意した松明に火を点す。
大江の里をぬけると、山道に入った。
しばらくゆくと、どこからともなく笛の音が聴こえてきた。
それは、段々こちらへ近づいてくるようだ。
晴明は思わず足と止め、その音色に耳を傾けた。
このような清らかな音色は聴いたことがなかった。
夜の闇の中に息づく、いくとし生けるあらゆる生命(いのち)と響きあっているかのような音色であった。
晴明は、己れの中で傾いでしまったものが、まっすぐの引き起こされるような心地がして、しばしその場に立ち尽くした。
それから、引き寄せられるように笛の音に向かって歩み始めた。
遥か前方にぼおっと淡く光を放つ牛車が見えてきた。
車の右側に、女が一人、その後ろに男が一人付き添っているのが見えたが、黙々と車を引く牛を導く者はどこにも見えない。
不意に車が止まった。
それと共に、ふっと笛の音がやみ、牛車は光を放つのをやめ、闇に沈んだ。
構わず晴明は歩みを進め、牛車に近寄った。
松明をかざすと、女はいつの間にか姿を消しており、車の傍らには若い男が一人立っているだけであった。
辺りはあまりに暗く、松明の光だけでは、男の顔立ちまではしかとはわからない。
「右大将さまの姫ぎみであらせられましょうか」
声をかけると、よく透る声が返ってきた。
「右大将さまの姫ぎみかは存じませぬが、こちらの姫をお送りするよう、さるお方に頼まれて参りました。」
品のよい、いかにも生真面目そうな口調である。
並みの身分のものでないとすぐに知れたが、それ以上に内面の誠実さがにじみでてくるようであった。
「はい、右大将は我が父でございます」
車の中から細い女の声がした。
「よろしゅうございます。右大将さまのお使いでお迎えに参りました。姫をお屋敷までお送りいたします。」
姫はか細い声で何か答えたようであったが、晴明にはよく聞き取れなかった。
踵を返し、車を先導して山道を下りかかった晴明は、ふと振り返った。
男の姿は闇に沈んで見えない。
「先ほどの笛はあなたが?」
それでも声をかけてみると、
「はい」
張り上げて出した声が闇の中から返ってきた。
「よい笛でした」
晴明は山道を下ってゆきながら、噛み締めるように声を返したのであった。
「それから、おれはそのまま姫をつつがなく右大将さまのお屋敷のお送りした、というわけよ」
「待てよ、晴明」
途中から目を丸くして聞いていた博雅は、晴明が語り終えると、咳き込むように言った。
「では、あの時の迎えの男はおまえだったということか?」
「そうだ」
晴明は澄ました顔でうなずいた。
「だが、あれは少年の声であったように聞こえたが・・・」
「おれは人より声変わりが遅くてな。その頃はまだ男童のような声であったのよ」
「そうであったのか」
博雅は、いまひとつぴんとこない顔をしたが、その顔にぱあっとうれしそうな表情が広がった。
「そうか、あれはおまえであったのか」
声を立てて笑い出した。
晴明も釣り込まれたように笑い声を上げた。
ひとしきり笑いあってから、博雅は、ふと、
「おまえは、いつ気づいたのだ?さっきのおれの話を聞いたからか?」
「いや」
晴明はかぶりを振った。
「あれからまもなく、内裏でおまえの笛を耳にする折りがあってな。亡き兵部卿宮のご子息であったとは知っておったよ。・・・そのような方が何故朱呑童子どのと関わりを持ったのか不思議に思うてはいたがな」
「ふうん」
博雅は複雑な顔になって、
「気づいておったのなら、何故今まで言うてくれなかったのだ」
唇を尖らせた。
晴明は微笑して、
「なに、ちょうどよい折りがなかったのよ」
それから、
「また、おまえの笛が聴きとうなったな。もう一曲頼む」
「・・・ごまかす気だな」
博雅は拗ねてみせたものの、すぐに手にしていた葉二を再び唇にあてて、澄んだ音色を紡ぎ始めた。
夜は静かに更けていった。
終わり
酒呑童子伝説の大江山って、現在の大江山ではなくて、山城と丹後の国境にある、現在大枝山と呼ばれている一帯なんだそうで。
以前、「雪華」という話を書いた時、酒呑童子で有名な大江山は丹後って書いたことがあって、勉強が付け焼刃ってのがバレバレで、恥ずかしいデス。(-_-;)
地元の方はよくご存知だと思いますが、老ノ坂は、山陰街道がちょうど大枝山の峠にさしかかるところです。
源頼光らに退治された酒呑童子の首がさらされたのもここ。
あと、晴明の声変わりが遅かった、っていうのは、映画「乱」で変声期の萬斎さん(当時武司クン)の声を聞いて思いついたネタです。
今回の話の二十前後、という晴明の年齢が、ちょうど「乱」に出ていた頃の武司クンと同じくらいなので、つい。
「乱」をご覧になった方は、あの鶴丸の声を思い浮かべて頂けるとうれしいです。
・・・というわけで、なつきさま、リク消化しきれておるでしょうか?
「二人が出会う前のお話」というお題なのに、ぢつは出会ってしまってますが・・・。(汗汗)