月喰い
どんよりとした雲が、満ちるのも間近な月を覆い隠している。
安倍晴明は、灯りも持たずに二条大路をすたすたと東へ向かって歩いていた。
神泉苑の前を通り過ぎようとした辺りで、ふと足を止めた。
前方、ちょうど神泉苑の東北の角の辺りに、ぼうと立つ人影がある。
「お久しゅうございますなあ、晴明どの」
見ると、それは一人の痩せ衰えた僧形の男であった。
頬はこけ、手足は骨と皮ばかり、目玉ばかりがギョロリと突き出し、老いているのか、そうでもないのかすらもわからぬようなさまである。
しかし、身にまとうのは、古ぼけてはいるが、高位の僧の纏うような立派な衣であった。
晴明は何も言わず、じっと僧を見返した。
僧は陶然とした表情で、
「おお、おお。相変わらずお美しいお姿じゃ。・・・我が小君が無事に成人しておれば、きっとこのようになっておったであろう」
そして、枯れ木の如き両腕を突き出し、
「そなたが欲しい。その白き肉を喰らい、紅き血を啜り、はらわたを貪り、骨までしゃぶってしまいたい。」
見る見るうちに、額からぬうと二本の角が生え、口が耳まで裂けて牙が生え、突き出した目玉はさらにせり出して、瞬く間に恐ろしげな鬼の姿と化した。
晴明は、顔色も変えず、人差し指と中指を口元にあてた。
鬼は頭をのけぞらせ、からからと笑った。
「何、今は手出しはせぬ。手出しなど出来ぬのはわかっておる。」
すうっと、もとの痩せこけた僧の姿に戻ると、
「わかっておいででしょうな。・・・三日後の夜じゃ。三日後の夜、そなたがどこにおられようが、必ずや貪りに参りますゆえ」
そして、ふっと消えてしまった。
博雅が、晴明の屋敷を訪ねたのは、その次の日の夜のことであった。
例によって、簀子でほろほろと酒を飲み、とりとめない話を交わした後、晴明はさりげなく切り出した。
「ところで博雅」
「ん?」
博雅が盃に口をつけながら、上目づかいに見返すと、
「おまえ、今度はいつここへ来られる?」
「そうだなあ」
博雅は盃を置いて、
「明日は宿直であるから、明後日辺りになるかなあ」
「明後日か」
晴明は眉一つ動かさず、
「すまぬが、明後日は用があってな。その次の日・・・三日後でどうだ」
「おお、そうか」
博雅は軽く目を見張り、
「その日は格別に用はないから、それでも構わぬよ」
何の疑いも持たぬ様子で頷いた。
「すまぬな」
晴明は、瓶子を取って差し出した。
「まあ、飲め」
「おお」
博雅は空になった盃を差し出して酒を受けた。
ひと口含むと、
「そう言えば、先日主上のお使いで三輪へ行ったのだがな」
「この酒はその土産であろう」
晴明が盃を軽く突き出して言うと、
「そうだ」
博雅は頷いて。
「その折、大神の社の神主どのが話して下さったのだが・・・」
二人の話は、再び取りとめのない方へ転がっていった。
その二日後は、望月であった。
くっきりと晴れ上がった藍色の空に、白く光る月が浮かんでいる。
その月の色に誘われて、博雅はふらりと屋敷を出、堀川の畔をそぞろ歩いていた。
すぐに葉二を取り出し、唇にあてる。
清らかな音色が月の光と絡み合って、堀川の水面を漂ってゆく。
その音色が、ふと途切れた。
博雅は、目の前に人影があるのに気づいて足を止め、笛を唇から離した。
立っていたのは、年の頃12、3才と見える一人の男童であった。
浅葱色の水干を身に着け、髪を首の後ろで結っている。
両手には、美しい黒檀の琵琶を抱えていた。
高家に仕える小舎人童か、大きな寺の稚児のように見えたが、何より、その顔立ちの美しさが目を引いた。
寺に仕える稚児とすれば、さぞや僧たちの心を騒がしておるであろう、と思われた。
「・・・晴明?」
そして、博雅が一瞬はっとしたほど面差しが晴明に似ていた。
童は口を開いた。
「源博雅さま・・・でございますね。」
高く澄んだ美しい声である。
「・・・そうだが」
博雅が頷くと、童は深々と頭を下げた。
「突然お声をおかけしたご無礼をお許し下さい。」
「あ、いや・・・」
礼儀正しく、また大人びた感じのする童である。
「失礼ですが、博雅さまには今宵は安倍晴明さまのお屋敷をお訪ねにはならぬのでしょうか」
「いや」
博雅は、戸惑いの色を隠せぬまま、
「今宵は、晴明どのは何か用がおありとかで・・・明日訪ねることになっているのだが」
「それはいけませぬ」
童が急に強い口調になったので、博雅は驚いた。
「なにゆえ?」
「今宵、晴明さまのお命が危のうございます」
「何!?」
博雅の顔がさっと蒼ざめた。
「どういうことだ?」
童は暗い目つきになった。
「我が師が晴明さまのお命を狙っておるのでございます。今宵は月蝕・・・師にとってはまたとない好機」
「月蝕?」
首を傾げる博雅に、童は手にした琵琶を差し出した。
「この琵琶は、我が師の母ぎみの遺愛の品を、赤山禅院にて浄めの護摩の煙をあてたものにて、この琵琶が鳴っている間は、我が師が晴明さまに手出しをすることは、叶いませぬ。・・・どうか、この琵琶にて晴明さまをお守り下さい。」
「・・・わかった」
まだ要領を得ないながらも、頷いて博雅が琵琶を受け取ると、その瞬間、童の姿はふうと消えた。
晴明は、御簾を下ろした室内の中央に円座を敷き、その周囲を呪を唱えながら、すり足でぐるりと一周していた。
それから、東西南北の四隅に四色の御幣を立てた台と榊の木を立て、注連縄を張り巡らせた。
そして、床に横たえた一振りの太刀を手に取り、御簾を押し開いて簀子に出、月を見上げた。
月は少しも欠けることなく、天空で輝いている。
晴明は、その光の下ですらりと太刀を抜いた。
退魔の太刀であった。
月の光を吸い込んでいるかのように、鋭い輝きを放っている。
その輝きを映した晴明の瞳もまた、刃の如く鋭く厳しいものであった。
その時、
「晴明!晴明はおるか!」
戸口の方で賑やかな声がしたかと思うと、ばたばたと廊下を駆けてきたのは、博雅であった。
手に黒檀の琵琶を持っている。
「博雅・・・」
晴明は目を瞠った。
抜き身の太刀を手にして立つ晴明の姿に、ただならぬ気配を察した博雅は、大声で詰め寄った。
「晴明!おまえの命を狙うている者がおる、というのはまことであったのだな!」
「何を言う、博雅・・・」
打ち消そうと口を開いた晴明を、博雅は片手を上げて押しとどめた。
それから、大きく息を吸ってから、今しがた堀川の畔で出会った童の話をした。
「何と・・・」
晴明は一瞬言葉を失ったが、いま一度月を見上げてから、太刀を鞘に収め、
「まあ座れ、まだ刻はある」
二人はいつものように、差し向かいで腰を下ろした。
「一体、どういうことなのだ、晴明。あの童はこの世のものではないようであったが、その師とやらはなにゆえおまえの命を狙うというのだ。」
博雅は厳しい表情で問い質した。
まっすぐに見つめてくる黒い瞳が、月の光を受けて透明な輝きを放っている。
厳しい表情にも関わらず、その光は柔らかく、暖かであった。
落ち着きを取り戻した晴明は、腹を決めたようであった。
「わかった。順序立てて説明するから、まあ聞け。」
「お、おう」
「そもそものことの起こりは、我が師、賀茂忠行さまがご存命であった頃のことだ」
忠行は、頼む人があって大和の国室生の里に足を運んだことがあった。
その時、供をした数名の弟子の中に、少年の晴明もいたのである。
室生の辺りでは、日が落ちると、墓を掘り返すなどして死人を喰らう鬼が出没しているというのだ。
生きている者が襲われたという話はないのであるが、何にしろ気味が悪いし、親しい者の亡骸が貪り喰われた者にはたまらない話だ。
何とか調伏してはもらえぬか、ということなのであった。
そうして、室生の里へ向かった忠行の一行は、途中の山中で奇怪な僧に出会った。
骸骨が皮を被っているかと思われるように痩せ衰えているが、身に着けた僧衣は、高位の僧が纏うような立派なものである。
僧は、問われるままに次のような話をした。
僧は、さる宮家の姫ぎみを母に持ち、室生寺の先代の住持を務めていたという高僧であった。
この僧、都から室生にやってきた時、一人の稚児を伴っていた。
年は十二、大変に見目麗しい稚児で、僧がこれを愛し、慈しむこと一通りのものではなかったのである。
ところが、この稚児が室生寺に移って最初の年の冬に、風邪をこじらせたのがもとで呆気なく世を去ってしまった。
僧はひどく嘆き悲しみ、稚児の亡骸を埋葬することもせず、生きている時にそうしていたように、常にこれを抱いて、撫でさすっていた。
そうして、冬の候とは言え、そのうち亡骸が傷んでくると、これが悲しいと言って、とうとう亡骸を貪り喰ってしまったのである。
そのまま、寺を飛び出して、山奥へ姿を隠した僧は、やがて生きながらにして死人の体を貪る食屍鬼と化したのであった。
彼こそが、室生の里人を騒がす鬼であったのだ。
僧は涙をはらはらとこぼし、
「愚僧も出来うることならば、このような浅ましき所業を続けとうはない。なれどかの稚児を想うがゆえの煩悩はやまず、ために死人の肉を貪り食わねば飢えを満たされぬ身となってしもうた。・・・何とかして救って頂きたい。」
忠行は、僧の妄執の深さを見てとると、
「これはもう、我ら陰陽の者の手に負えるものではない。これより共に都へ参り、比叡辺りの高徳の上人にお任せするのが得策であろう。」
と言い、僧に頭巾を被せて異様な風貌が分からぬようにし、都へと連れてゆくことにした。
山を下り、大和の国桜井の辺りで日が暮れたので、一行はとある寺に乞うて一夜の宿を借りることにした。
僧坊の一つを貸し与えられ、一行が思い思いの場所に横になって、寝静まった頃。
一人、廂で横になっていた晴明の体の上に、突然何かが覆いかぶさってきた。
目を開くと、かの僧の突き出した両眼が目の前にあった。
そして、こんなことを言ったのである。
「そなたは、我が小君に生き写しじゃ。どうか、我が小君の身代わりになって下され」
そうして、見る見るうちに、額から角がせり出し、口が裂けて牙を生じ、恐ろしい鬼の姿と化して、鋭い牙を晴明の喉につきたてようとした。
晴明は咄嗟に魔除けの印を結んだ。
これに鋭く弾かれて、鬼の体は吹っ飛んだ。
そこへ、気配に気づいた忠行が起き出してきた。
「御坊、お鎮まりなされ」
たちまち事態を呑み込んだ忠行が、厳しい叱責の声を与えると、これに打たれたかのように、鬼は僧の姿に戻ってへなへなと崩れ折れた。
そして、弾かれたように跳び上がり、戸を押し開けて、そのまま外の闇へと消えてしまった。
「その後、一年ほどしてかの僧は、またおれの寝込みを襲いにきたのだがな」
既に、陰陽の術をかなりの段階まで習得していた晴明は、難なくこれを退けた。
「しかし、どうにも煩悩が収まらぬらしくてな、折りにふれては、おれの身の回りに付きまとっておったのだよ。」
「そうか」
博雅は眉をひそめ、
「では、先ほどの堀川の稚児どのは・・・」
「恐らく、その僧が愛慕した稚児であったのだろうよ。」
「うむ」
晴明の言葉に、博雅はうなずきながら、稚児の、美しいが妙に大人びて暗い表情を浮かべた顔を思い出した。
「・・・確かに、おまえによく似ておられたよ」
ぽつんと言ってから、
「それでは、何故、かの僧が今宵に限っておまえの命を危うくするというのだ。」
「うむ」
晴明はすっと目を月へ向けた。
「今宵は月蝕なのだよ」
「月蝕?」
「望月が数刻の間、闇に隠されてしまうことだ。・・・月がすっかり闇に隠れてしまっている間は、おれは術が使えぬ」
「何!?」
博雅は大きく目を見開いた。
「何故だ」
「分からぬ。分からぬが、月蝕の間はおれは術で我が身を守ることができぬ。」
「では、鬼はそれを狙うて・・・」
晴明はうなずいて、
「実は三日ほど前にな、今宵おれを喰らいにくる、と言いに現れおったのだよ。」
「それで、おれに来るな、と言うたのか」
博雅はぎゅっと眉根を寄せた。
「おれでは頼りにならぬか」
「そういうわけではない」
晴明は静かな口調で、
「月蝕が始まれば、おれはおまえを守ってやることができぬ。」
すっと立ち上がると、御簾を巻き上げ、中にしつらえたものを博雅に示した。
「並みの鬼ならば、あの結界の中におれば寄せ付けずに済むのだよ。月が隠れているのも、それほど長い間ではないしな。・・・だが、かの僧の妄執は根深い。あのようなもの、簡単に踏み越えてしまうであろう。」
「そうなれば、その太刀で戦うつもりであったと言うのか」
「おれの趣味には合わぬが、この際、仕方があるまいよ」
晴明は首をすくめた。
「ならば、おれとて力になれる。共に戦ってやれるではないか。」
博雅が苛立った声を上げたが、晴明は首を振った。
「そうかもしれぬ。・・・だがな、博雅」
じっと博雅の顔に目をあて、
「おれはな、おまえを守りきれる自信がない、というのはどうにも心もとなくて、たまらぬのだよ。」
晴明の切れ長の目が、いつになく不安を隠さないので、博雅は沈黙した。
しかし、ややあって口を開いた時は、きっぱりとしていた。
「おまえの気持ちは分かる。だが、おれはおまえにもっと信じて欲しかったよ。」
「博雅・・・」
「友ならば助け合い、支え合うのは当然であろう?おれとて、いつもおまえに助けられてばかりでは面白くない。」
「それは・・・」
「幸い、かの稚児どのがこれをおれに託して下さった。」
博雅は、傍らに置いた琵琶を手に取り、
「これを鳴らせば、おれはおまえを守ってやれるし、おまえもそのような剣呑な物を振り回さずにすむ。」
「・・・」
「だから、今宵はおれはここにいて、おまえのために琵琶を弾いてやる。それでよいな。」
博雅の真っ直ぐな物言いに、晴明は何とも言えない顔になった。
それから、噛み締めるように言った。
「おまえは、本当によい漢だな」
すももさまの15000ヒットキリリク第1弾でございます。
遅れまくった上に前後編でございます。リク消化しきれるかどうかは、神のみぞ・・・。
ちと気持ちの悪い話ですが、元ネタは、またまた『雨月物語』の中の「青頭巾」です。
原典では、栃木県大平町の大中寺というお寺が舞台です。室生寺は関係ありません。悪しからず。(-_-;)
大中寺には、七不思議というのがあって、(「開かずの雪隠」とか「馬首の井戸」とか)結構有名な怪奇スポットになっているようです。
関心がおありの方は、足を運んでみてはいかが。(楊某はこわいのは苦手ですけど)
あと、皆既月食については、日食よりは頻度が多いみたいだし、日本での観測記録は余り正確に残っていないようなので、適当にでっち上げちゃっていいかな〜と思いまして。
突っ込まないでやって下され。
ちなみに「月食」「月蝕」という言い方自体は、中国の古典に出てくるので、この時代の日本で使っても問題なかろうと思います。