南に面した簾だけが巻き上げられ、そこからぽっかりと浮かぶ中天の月が見えている。
晴明は、結界の中央の円座に、東を向いて座していた。
背筋をぴんと伸ばし、黙然と目を伏せている。
その膝先に、鞘に収めた退魔の太刀が置かれていた。
博雅は、これと向かい合うような形で結界の外側にしつらえた円座に座していた。
手には黒檀の琵琶を持ち、緊張の面持ちで左手の月を見上げている。
やがて、晴明が目を伏せたまま言った。
「始まるぞ」
言い終わるや否や、丸い月の端に黒い影が差した。
「まだだ、博雅。月がすっかり隠れてしまわぬうちは大丈夫だよ」
なおも目を伏せたまま、晴明が言うと、博雅は撥を握り締めてうなずいた。
月はみるみる細くなってゆき、
やがて、糸のようになった最後の光が消え、
辺りが闇に包まれた。
嫋。
間髪を入れずに、琵琶が鳴った。
博雅の奏でる琵琶の音が、嫋嫋と鳴り、月を失った漆黒の闇を漂ってゆく。
緊張が頂点に達して、気を失いそうな心地がしていた博雅であったが、一旦、琵琶を奏で始めると、身も心もその音に溶けてゆくような心地になり、身も心も楽に浸していった。
闇の中で、晴明が目を伏せたまま、微かに微笑んだかのようであった。
その時。
ざんっ
東側の簾が急にはねのけられた。
一陣の風のように飛び込んできた者がある。
琵琶をかき鳴らしながら博雅が首をめぐらすと、そこに青白い光を放って、僧形の男が立っていた。
―来たか
博雅は、これをちらと見ただけで、すぐに顔を前に戻し、楽に気持ちを集める。
「おお、この琵琶の音は・・・」
僧は呻くように呟いた。さびさびとした声である。
「まさしく、我が母の形見」
ゆっくりと歩を進めて近寄りながら、
「室生寺に赴く折りに赤山禅院にお納めしたはず。何故、これが・・・」
博雅の背後に立ち、うっとりと聴き入っているようであった。
「それにしても美しい音じゃ・・・。これは、まことよき琵琶なれど、かほどに美しき音で鳴ったのをかつて聴いたことがない・・・」
しばらく沈黙が続いた。
しんとした闇の中に、ただ琵琶の音が嫋嫋と流れてゆく。
ややって、
「おのれ!」
突然僧が叫んだ。
「晴明どのがそこにおられるではないか!我が母の琵琶の音で、愚僧をたばかろうとなさるか!」
僧は結界の向こう側にいる晴明に向かって片手を突き出したが、それ以上は動かなかった。
琵琶の音に阻まれているかのように、そこより前へは進めないのである。
博雅は、琵琶を弾く手を休めないまま、体ごと僧の方へ向き直った。
僧の体から発せられる青白い光を受け、黒い瞳が凛とした光を浮かべて正面から僧を見据える。
その澄んだ輝きに恐れをなしたかのように、僧は目を反らし、数歩後ずさったが、
「ぐぬう」
眼にギラリと光を宿すと、
「琵琶を鳴らすのは、やめよ!」
と大声で怒鳴った。
すぐ目の前で大きな声を出されて、博雅は一瞬ぴくりとしたが、琵琶を弾き続けたまま、僧を見据える目も反らさない。
「やめぬかあ」
僧は威すように更に大声を出したが、博雅の手は止まらない。
「おのれ!」
僧はカッとしていきなり骨張った手の甲で博雅の頬を打った。
琵琶の音は、一瞬乱れたが、途切れなかった。
口の中が切れたか、博雅の口の端から血が一筋流れた。
しかし、強い瞳の光は、なおも僧を見据えている。
背後の闇の中で、晴明が身動きする気配があった。
博雅は、それを制するように口を開いた。
琵琶の音に合わせて、謡を口ずさみ始めたのだ。
「やめぬか」
僧は苦々しげに呟くと、手にしていた杖を振り上げ、
「ぬしがやめぬなら、その琵琶を砕いてくれるわ」
博雅の腕の中の琵琶目がけて振り下ろした。
博雅は息を呑み、咄嗟に琵琶を庇うように僧に背中を向けた。
杖はそのまましたたかに博雅の背を打った。
「ぐわあ」
楽の音が激しく乱れた。
博雅は苦痛に背を曲げながらも、懸命に撥で弦を叩く。
僧は一瞬ひるんだように見えたが、すぐに再び杖を振り上げ、
「これでもやめぬか!」
と、めちゃくちゃに博雅の背を打った。
琵琶の上にうずくまるようにして弦を引っかいていた博雅は、闇が動く気配に振り返った。
闇に慣れた目に、太刀を手にして膝立ちになった晴明が見えた。
「晴明!」
振り絞るような声で呼びかけた。
「やめろ!」
晴明が目を合わせてきた。
「これが音を出しておりさえすればよいのだ。・・・太刀は抜くな」
博雅が懸命に言うのに、晴明は無言でかぶりを振ってみせ、立ち上がって太刀の鞘をはらった。
博雅の背後で、瞬時に僧が鬼の姿に変じた。
「ならば、おぬしから喰ろうてくれる!」
博雅の体につかみかかる。
「博雅!」
晴明が太刀をかざして、結界の注連縄を踏み越えた。
途端、
闇がざわざわと動いたかと思うと、
―こやつめ!
―こやつ、博雅どのを喰らおうとしておる!
―やめさせろ!
―博雅どのを喰らわぬよう、
―こやつを喰ろうてしまえ
―おお
―おお
庭の方から、幾匹かの鬼が飛び込んできて、あっという間に鬼と化した僧に掴みかかってきた。
「な、何じゃ、うぬらは」
僧の鬼は驚いて、思わず捕らえた博雅の体を離した。
「は、離れぬか!」
肩や足に噛み付いてくる鬼たちを、杖を振り回して払い落とそうとする。
博雅は、琵琶を抱いたまま崩れ折れた。
思わぬ成り行きに、晴明は抜き身の太刀を手にしたまま、鬼どもが争っているのを眺めていたが、
はっと気づいて、南の空を見上げた。
「月が・・・」
漆黒の空に、糸のように細い、銀の光が浮かんでいた。
月が影を脱け、再び姿を現したのだ。
そして、少しづつ、少しづつ、光の幅が広くなってゆく。
晴明は、太刀を鞘に収め、床に置いた。
やがて、銀白色の光が、さあっと室内に差し込んできた。
つかみ合っていた鬼たちは、はっとして動きを止めた。
月の光が、すっと立つ晴明の姿を照らし出している。
白い狩衣が、自ら輝き出しているかのようである。
「つ、月が・・・」
僧の鬼は、顔を覆って崩れ折れた。
―月が戻ってしもうた!
―晴明の呪力が復活するぞ!
―逃げよ!
―逃げよ!
鬼どもは、あっという間に姿を消した。
後には、人の姿に戻った僧がうずくまっているだけであった。
晴明は、膝を屈めて、すぐ足もとにうずくまった博雅の体を抱き上げた。
痛めた背中に触れぬよう肩を支え、頭を己の胸にもたせかけるようにする。
袖で口元の血を拭ってやると、ぐったりしていた博雅は、目を開いて晴明を見上げた。
「月が戻ったのか?」
「おお」
晴明は優しくうなずいた。
「あの鬼どもにも助けられた。おまえを救うてくれたのだから、逃げずともよかったのだがな」
どうせ、僧が晴明を殺したら、あわよくばそのおこぼれに預かろうと待ち構えていた輩であったのだろうが。
―そのような卑しい鬼でも、博雅を守ろうとするのであるからなあ。
安堵して、弱々しい微笑を浮かべた博雅に、笑みを返してやりながら、晴明は今さらのようにつくづく感じ入っていた。
うずくまっていた僧が、もぞもぞと頭を起こした。
目の前で寄り添う二人の姿にじっと目を注いだ。
そこで月の光に照らし出されているのは、互いへの思いやりと愛情と信頼の他の何ものでもなかった。
僧が、とうの昔に失ってしまったものであった。
僧はよろよろと立ち上がった。
はっとして、晴明と博雅が目をやったが、僧は二人に背を向け、悄然とした足取りで歩き去っていった。
そのまま、夜の闇に姿を消し、二度と現われなかった。
衣を脱ぎ、褥にうつ伏した博雅の背中は、杖で打たれたあとが痛々しく腫れあがり、皮膚が破れて血が滲んでいるところもあった。
晴明は、形のよい眉をひそめながら、博雅の背のあちこちを触ってみながら、
「吐き気などはせぬか?」
「打たれたところの他に痛むところはないか?」
「手足は動かせるか?指はどうだ」
などと、幾つか問いを投げかげてから、やっと安堵したように、
「骨も折れておらぬし、内臓も傷ついてはおらぬようだ。打ち身の薬を塗っておけば大事なかろう」
それから、蜜虫を呼び、打ち身の薬を持ってくるよう命じた。
「しばらく仰向けには寝られぬなあ」
博雅が不景気な声で言うので、晴明は思わず微笑をもらした。
「そうだな」
「まあ、明日の夜ここへ来てみたら、おまえが鬼に食われて跡形もなかったというようなことになっていたかもしれぬと思えば、大したことではないな」
咄嗟の軽口のように聞こえたが、博雅の顔は真剣だった。
本心からそのように思っているらしかった。
晴明は、黙って蜜虫が持ってきた薬を手に取り、そっと博雅の背に塗り始めた。
薬よりも、その手に癒されるような心地がして、博雅はほうと息をつくと、やがてうつらうつらとまどろみ始めた。
博雅が、すうすうと穏やかな寝息を立て始めると、晴明は薬を塗る手を休めないまま、そっと呟いた。
「おまえは、本当によい漢だな」
曇りなく中天に輝いていた望月は、やがてゆっくりと西に傾き始めた。
結
結局、何だかいつもの二人になってしまったようです。(^_^;)
すももさま、リク消化できているでしょうか?(汗汗)
前編に書き忘れちゃったんですが、今回、人食い坊主に喝入れた忠行さまのビジュアルが、何故かM作お父様でした〜。
っということは、保憲さまは、I田さん?(親子関係が逆じゃが)