「あそこじゃ」
老人が足を止めて、木々の間を指差した時には、とっぷりと日が暮れていた。
夜目の利かぬ博雅のために、薫が、どこから出してきたものか、手に松明を掲げている。
博雅は、一歩前に出て、木々の間から覗き込んだ。
日も暮れたというのに、そこはぼんやりと薄明るかった。
一本の大きな柏の古木が立っている。
幹には大きな洞が空いていた。
洞の前には、一人の女が立っている。
女の体から発せられる白い光が、辺りを照らしているのである。
女と差し向かいで男が立っていた。
白い狩衣の後姿は、紛れもなく、
「晴明!」
博雅は思わず声を上げた。
考えるよりも、体が先に動いていた。
夢中で木々の間から走り出していた。
晴明が振り向いた。
薫の持つ灯りに、その顔が照らし出された時、博雅は思わず足を止めた。
その顔は、博雅が見たことのないような冷たい表情を浮かべていた。
切れ長の目は、突き放すように博雅を見ている。
こんな目つきで晴明に見られたことなどなかった。
―晴明、やはり―
博雅は、足元にぽっかり穴が開いたような気がした。
全身の力が抜けて足が竦み、立っているのもやっとになる。
が、次の瞬間、
「きさまああああああ」
晴明と対峙していた女が、凄まじい形相になって、こちらに向かって走り出してきた。
放たれた矢のような速さで、晴明の脇をすり抜ける。
走るうちに、髪は黒く長く、肌は白い美しい女の姿が、あっという間に一匹の大きな白い蛇の姿と化した。
「博雅さま!」
松明の灯りが消えたかと思うと、薫が飛び出してきて、博雅の前に立った。
「邪魔立てを!」
蛇は、尾を振り上げて薫を打った。
薫は、花が散るように、ふうと消えてしまった。
「薫!」
博雅は思わず右腕を突き出した。
その右腕に、蛇はがっと牙を立てた。
「ぐわあっ」
激痛に気が遠くなりそうであった。
毒蛇であるのだろうか、体が痺れてくる。
ぼんやりしてきた視界に、晴明が蛇の首をつかんで博雅の腕から引き剥がし、これを乱暴に地面に叩きつけるのが見えた。
そこへ、風伯の射た矢が、蛇の頭を貫いて地面に串刺した。
立っていられなくなって、ふらっとよろけると、誰かの腕に支えられた。
「・・・まさっ!・・・博雅!」
晴明に呼ばれているような気がして、目を開けた。
晴明の顔が見えているような、その顔いっぱいに何かを案じる表情が広がっているようなのは、気のせいか。
それとも
先ほどの、あの冷たい眼差しの方こそが。
それを確かめようと、博雅は口を開いたが、そこで意識がぷつんと途切れてしまった。
大人たちから少し遅れてしまった子狸は、目当てにしていた松明の火が急に消えてしまったので、慌ててそちらの方角に向かって走った。
人の姿に化しているとは言え、狸なので夜目は利く。
すると、木々の間から、風伯の声が聞こえてきた。
「かの蛇が、この方に牙を立てた時に、かけたであろう呪こそが、この方の命を奪うに相違ない・・・」
声を頼りに、木々の間から覗き込むと
大切な大切な殿さまが、仰向けに横たわっているではないか。
右腕に巻きつけられた布に滲んだ血に、子狸は全身が凍りつくような思いがした。
傍らには、あの恐ろしげな、白い狩衣の男が座し、風伯もすらりとした姿で佇んでいる。
少し離れたところには、一匹の白い大きな蛇が、頭を矢で地面に貫きとめられて、ばたんばたんとのた打っていた。
しかし、子狸の目には、殿さまが死んだように倒れている姿しか映らない。
「殿さま!」
疲れも忘れて、転がるように走り寄った。
博雅の顔を覗き込むと、蒼ざめた顔で、ぴくりとも動かない。
子狸は、その体に縋って、しくしくと泣き始めた。
不意に、頭上から声が降ってきた。
「そこな狸!」
ぴくりとして見ると、白い狩衣の男がこちらを見ている。
途端に子狸は、ひどく怯えた。どうにも、この男は恐ろしかった。
「この辺りでスベリヒユがたくさん生えておるところを知っておるか?」
「・・・はい・・・」
蚊の鳴くような声でいらえる。
すると、
「よし」
と、晴明は頷いて、
「ならば、すぐに集めてきておくれ。博雅さまのお命をお救いするためだ。しっかり頼むぞ」
「はい!」
殿さまの命を救うため、と聞いた途端、子狸の心から目の前の男への恐れが消えた。
弾かれたように飛び上がり、そのまま転がるように駆けて行った。
しばらくして、子狸は、腰から下げていた袋と、懐、そして小さな両腕いっぱいに摘み取って戻ってきた。
すると
晴明が、気を失ったままの博雅を背中から抱くようにし、その胸の前に回した両手で印―むろん、子狸はそれとはわからなかったのであるが―を結んでいた。
何やら、不思議な言葉―呪を一心に唱えている。
しばらく見ていると、突然、のた打ち回っていた白蛇がぴんと体を突っぱねた。
それから、小刻みに震え始めたかと思うと、
「ぐがああ」
と恐ろしい叫び声をあげ、それきりぱたりと動かなくなった。
そして、ふうと消えてしまった。
晴明は、手を解き、博雅の顔を覗き込んだ。
それから、そのまま博雅の体を抱き締めた。
子狸は、何故だか近寄ることがためらわれ、その場に立ち尽くした。
そして、いつの間にか風伯の姿が見えなくなっていることに気づいた。
一応、晴明がやっているのは、あの大変に有名な(爆)身固めの術のつもりです。
ほんとは一晩中やってなきゃいけないもんみたいだけど、まあ目の前に呪を返す相手がいるわけだから短縮版でいいやね。(いいのか?)
次回で完結だす。