打ち寄せる波の音で目が覚めたような気がした。

目を開くと、そこは別邸の、博雅自身の寝所であった。

すっかり耳に馴染んだ、小浜の海の波の音が、ゆるやかに繰り返すのが聴こえる。

「・・・殿さま」

可愛い声が遠慮がちに呼びかけるので見ると、褥の傍らに子狸がちんまりと座っていた。

「おお」

博雅は、ふうわりと微笑んだ。

「付き添うていてくれたのか」

子狸はこくんとうなずいて、

「ご気分はいかがでしゅか?」

と心配そうに訊ねた。

「気分は・・・」

悪くはなかった。頭が少し重く、手足に気だるさが残っているが、ぐっすり眠って目覚めた後のようである。

蔀戸から射し込む日の光を見ると、正午も間近、といった刻限であろうか。

「おお、気がついたか」

そこへ、晴明が手に椀を持って入ってきた。後には薫を従えている。

「晴明・・・」

博雅は、一瞬大きく目を開いた。

しかし、晴明は常と全く変わらぬ、落ち着き払った様子で、褥の傍に腰を下ろした。

「スベリヒユを煎じたものだ。蛇毒の毒消しによう効く。」

博雅が起き上がると、手した椀を差し出した。

「蛇毒・・・」

椀を受け取りながら、白蛇に牙を立てられた右腕に目を落とすと、白い布がきちんと巻かれている。

かすかに痛みが残っていた。

「風伯さまが大した毒ではない、と言うておられたので、これをしばらく飲んでいれば心配はなかろう」

晴明が優しく言うので、博雅はこくんと頷き、大人しく椀の中の物を飲み干した。

何やら、ほっとしたような、拍子抜けしたような、複雑な心持ちである。

「このスベリヒユは、この狸の子が山の中を駆け回って集めてきてくれたのだよ、博雅」

晴明が珍しく子狸のことで優しいことを言う。

博雅は目を丸くして、

「そうなのか?それはすまなかった。このたびは、坊にはすっかり世話になったなあ」

「いえ、殿さまのためなら、こんなことくらい・・・」

子狸はどぎまぎした。

「母ぎみにも礼を言うておいておくれ。あの飯はよい味であったとな」

「はい!」

元気よく頷くと、親たちが心配しているからと、子狸は名残惜しげに山へ帰っていった。

これを簀子で見送ってから、晴明にもうしばらく横になっているように言われ、博雅は再び褥に横たわった。

そして、少しの間、もの想いに耽るようであったが、やがて、晴明の方に顔を向けると、思い切ったように呼びかけた。

「晴明」

「何だ」

「・・・河伯さまから聞いた。おまえと、蛇の化身である女人のこと・・・。」

晴明は無言だった。

顔色からは、多くは読み取れなかったが、博雅に聞かせたくなかったのは確かのようであった。

博雅は、思いやりの籠った眼差しで、じっと晴明を見上げ、

「辛かったであろうな。・・・おれにはわからぬが・・・さぞ、辛かったであろう」

飾り気のない、だが実の籠った言葉がすうっと胸に沁みこんでくるようであった。

晴明は、そっと差し出された博雅の手を握った。

「すまなかった。おまえに黙って出て行ったりなどして。・・・案じたであろう?」

博雅はこくんと頷いた。

「おまえのことだから、おれが案ずることもなかろうと思うたのだが。・・・何か、ひどく心細くてな」

晴明は、博雅の手を握る手に力を込めた。

「あの時は、ああするより他はなかったのだよ。・・・あの女がおまえに手出しをしかねん様子であったから、まず、あの女の目をおまえから逸らす必要があったのだ。」

その為には、晴明が速やかに博雅の傍を離れねばならなかった。

「そして、一刻も早く女と決着をつけようと、女の居場所を訊くために河伯さまを探しに行ったのだよ。」

「それでは、あの木の洞が・・・」

「白蛇の棲みかであったのだ」

晴明は、かの木の前に結界を張って、夜な夜な洞から姿を現わす女を待ち受けた。

晴明に焦がれる女が、晴明の気を引こう、あるいは結界を破ろう、と徒に力を消耗するのを待った上で、女の呪の力を封じ込めよう、という腹であった。

ところが、

「すぐに蹴りがつくかと思うたのだが、存外手強くてな、手こずっておったところにおまえが飛び込んできたのだよ」

「・・・では、おれが邪魔をしてしまったのだな」

「いや」

晴明はかぶりを振った。

「女がおまえにも命を取るための呪をかけたおかげで、おれにかけられた呪も共に女に返してしまい、あれをただの無害な蛇としてしまうことができたのだ。」

物憂げな色を浮かべ、

「おまえを形代とする形になってしまった。・・・全くおれの本意ではなかった。・・・すまぬ」

「謝ることはない。・・・いかなる形であれ、役に立てたのはうれしいぞ。」

博雅は労わるように、晴明の手を握り返した。

それから、

「そうか」

その顔にふわあっと笑みが広がった。

「やはり、あの女人と決着をつけるために会いにいったのだな」

晴明は不審げに、

「当たり前ではないか。他にいかなる用があると言うのだ。」

「もちろんだよ、晴明」

博雅はにこにこしている。

「おかしな漢だな」

晴明は苦笑した。

「おまえほどではないぞ」

博雅はやり返した。

外はよく晴れて、穏やかな日和である。

半ばまで下ろされた御簾を揺らして、爽やかな風が吹き抜けていった。

  

 終わり


 一応、元ネタは『雨月物語』の「蛇性の淫」ですが、白蛇の化身である美女に男が付きまとわれる、というコンセプトだけ拝借した形になりました。(^^;)

「白蛇抄」というタイトルも、「蛇性の淫」の更に元ネタとなった中国の伝奇小説から借りました。

「白蛇伝」と言えば、中国の古典劇の題材としても有名ですよね。

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