博雅は、清水からほど近いところに、すっくりつと立つ楓の木の根元に腰を下ろしていた。

両膝を立てて座る、という余り殿上人らしからぬ姿勢で、ぼんやりとあらぬ方を見ている。

二、三歩ほど離れたところに薫が佇んでいる。

川の老人は、博雅の言葉に打つ手なしと言った様子で両手を挙げ、

「しばらく考えさせてくれ」

と言って、姿を消してしまった。

博雅は、所在なくこれを待っているのである。

そこへ、しばらく前から姿が見えなくなったようであった子狸が、何やら大切そうに包みを抱えて博雅の傍へと寄ってきた。

「・・・殿さま」

遠慮がちに何度か声をかけていると、やっと博雅が我に返って気づいてくれた。

「おお、いかがした?家に帰ったかと思うていたが」

「はい」

子狸は抱えていた竹の皮で包んだ物を博雅に差し出して、

「家に帰って、母さまにこれを作ってもらってまちた。・・・殿さまは、朝から何も召し上がっておられぬので」

「何だね」

博雅が受け取って中を開くと、蒸した玄米がひと盛りに、川魚を焼いたものと里芋を煮付けたものが添えられていた。

「母さまは、人の食事はこのような、里人の食するようなものしか作れないのでしゅ。殿さまのような高貴なお方のお口に合うかと案じてまちた。」

子狸は、気がかりそうに博雅を見上げた。

博雅は、思わず微笑んだ。

「とんでもない。・・・そう言えばひどく腹が減っておったよ。このような気遣いをさせてしまって、すまぬなあ」

それから、子狸の頭を撫でて、

「坊はまことによく気のつく狸だなあ」

子狸はたちまち真っ赤になって下を向いた。

それを少し離れた木の上に座って様子を見ていた風伯が、ふうわりと舞い降りてきた。

「・・・何を考えておられた、葉二の君よ」

風伯を見上げる博雅の顔からゆっくりと笑みが消えていった。

目を、清水の方へ向けて、

「先ほど、ご老人が仰せになったことを思い返しておりました。」

「・・・かの陰陽師が人の世に馴染む男ではない、ということかね?」

博雅はうなずいた。

「晴明は、いつぞやわたくしにこう言うてくれたことがあったのです。おまえがいるから、おれは人の世に繋ぎとめられている(※)、と」

小さくふうと吐息をつく。

「わたくしは、それを聞いてとても嬉しかった。その言葉を心から信じ、生きる支えにすらしていた。―わたくしも、また晴明がいなければ己れを見失っていたでありましょうから」

ひどく寂しそうな目になって、

「しかし、川の老人が仰せになった通り、晴明が闇の眷属とならんがために姿を消したとするなら、わたくしが晴明を人の世に繋ぎとめ切れなかった、ということになりましょう」

がっくりとうなだれる。

「いや、もとより、わたくしなどには晴明を繋ぎとめる力などなかったのやもしれませぬ。・・・ただ、そうに違いないと自惚れていただけのことだったのやも・・・」

「殿さま・・・」

博雅が、今にも泣き出しそうに見えたので、子狸はおろおろしてこれに寄り添った。

風伯は、黙ってこれを見つめていたが、

「それでは、かの陰陽師を探すことをお止めになるか?」

博雅は目を上げた。今にも零れ落ちそうな涙が光っていた。

「いいえ、このまま去ってしまって、もし晴明と二度と会えぬということになれば、これほど辛きことはございますまい。何としても・・・」

光るものが一滴だけすっと頬をつたった。

「いま一度、晴明に会いたいと思うております。」

風伯はうなずいた。それから、

「よろしければ、今、ここでそなたの笛を聴かせて下さらぬか」

と優しい口調で問うた。

博雅は、軽く目を見開いてから、うなずいた。

すっと立ち上がると、懐の葉二を取り出し、唇にあてる。

やがて、空を吹く風よりも、山を下る水よりも、さらに澄んだ妙なる調べが木々の間を滑り出していった。

静かに佇む薫も、博雅の足元に座り込む子狸も、再び樹上に腰掛けた風伯も、木々も草花も獣や鳥たちも、じっとその音に耳を澄ませていた。



二、三曲吹き終わる頃、いつのまにか清水のところに、河伯がぼうと立っていることに、一同は気づいた。

「・・・よい笛じゃ。まこと、楽の申し子じゃ」

老人は低く呟くと、笛を唇から離して歩み寄ってきた博雅に言った。

「お連れ申そう、かの陰陽師のおるところへ。そなたたちをいたずらに引き離すこと、わしなどには到底許されぬことのようじゃ」

「・・・まことですか!?」

老人は頷いた。

「あの女は、そなたがかの陰陽師にとっていかなるお人であるか、承知のはずじゃ。そなたの姿を見れば、必ずや危害を加えんとするじゃろう。くれぐれも心してゆかれよ。」

博雅は緊張して頷いた。

河伯は、更に傍らにふわりと舞い降りた風伯に、

「かの白蛇は、我が眷属ゆえ、このお方に危害を加えんとしても、わしには手出しはできぬ。―風の君よ、どうかこのお方に付き添うてかの者から守ってさし上げてくれぬか」

風伯は微笑した。

「もとより、そのつもりよ」

老人は頷くと、次に博雅の足元の子狸を見た。

「狸の子や、これからゆくところには恐ろしい蛇の化け物がおって、小さな狸なぞひと口で呑み込んでしまうやもしれぬぞ」

子狸は、博雅の直衣の裾にしがみついて身震いしたが、

「わたちも殿さまをお守りしましゅ!」

と、大きな声で答えた。

博雅は不安になって、

「おまえは、もう十分役目を果たしてくれたから、もう家へお帰り」

と言ったが、子狸は博雅の直衣の裾をぎゅっと握り締めて、梃子でも動こうとはしない様子である。

河伯は、首を竦め、

「かの白蛇は、小さな者には見向きもせんじゃろう。気の済むようにさせておやりなされ」

それから、

「では、こちらじゃ」

清水から岸に上がり、一行の先に立って歩き始めた。

  

 
続く


 ※『陰陽師 生成り姫』(朝日新聞社)より。こんなこと平気で言っちゃう、原作の晴明って・・・。獏先生、素敵ですvvv

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