遠敷川に沿った山道を、川上を目指して登ってゆく。

澄んだ流れが、川岸の草の間から、幾筋も時折さらさらと湧き出でて、森全体が水の流れに浸っているかのような感覚に捕らわれる。

一刻ほど歩いたかと思う頃、子狸が足を止めた。

「ここでしゅ」

「・・・。」

そこは、川が急に深くなっっているところに、流れが落ち込んで渦を巻いているところで、水辺に立ってみても、格別変わった気配などは感じられない。

辺りを見回しても、濃い緑の木々が生い茂っているばかりである。

「川の神は、いつもここに現れるのかね?」

博雅は子狸に訊ねた。

「いいえ」

子狸はかぶりを振った。

「川の神さまは、水の流れを治める神さまなので、いつ、どこにいらっしゃるかわからないのでしゅ」

「そうか・・・」

博雅は途方に暮れた。

何か手がかりでも、と思ってここへ来てみたのだが。

この日は、天気もよく、木洩れ日がきらきらときらめき、のどかな鳥の囀りも聴こえる。

博雅の目には、陰態に通じる入り口らしきものなど、どこにも見当たらなかった。

「何か感じぬか?」

薫を振り返ったが、薫は黙ってかぶりを振った。

その時、風がごうと吹いてきた。

これまでかすかに頬を撫でていたそよ風よりも、ずい分と強い風である。

博雅は、思わず烏帽子を押さえた。

すると、風は吹いてきた時と同じように唐突にやんだ。

「わたくしがご案内しよう、葉二の君」

不意に頭上から声が落ちてきた。

よく澄んだ、爽やかな響きのある声である。

見上げると、傍らの木の、大人の背よりもやや高いほどの枝に、ほっそりした若い男が腰掛けていた。

頭には被り物もつけず、長い艶やかな黒髪を、男童のように首の後ろで結い、萌黄色の狩衣と同じ色の単、少し濃い色の指貫を身に着け、背には弓矢を負うている。

晴明との長いつきあいのおかげで、博雅にも、相手が人ならぬ身であるとすぐに察せられた。

「あなたは・・・」

男は軽く微笑した。

「そなたの友ならば、わたくしのことを風伯、と呼ぶであろう」

「風伯・・・」

博雅は迷うように視線をめぐらせてから、

「風の神・・・」

「まあ、そんなところであろうな」

「なぜ、わたくしのことを・・・」

「何の、我が眷属でそなたのことを知らぬ者などおらぬ。龍笛の君、管弦の仙たるお方、技芸天の寵を一身に受けし君。わたくしも都を吹きすぎる折にはよくそなたの笛を聴かせてもらっている。」

「それはお恥ずかしい・・・」

博雅は、要領を得ない顔ながらも、頭を下げた。

「都は堀川の畔で、初めてそなたの笛を聴いて以来、何かあればそなたの役に立ちたいを思うていた」

「・・・」

「わたくしならば、河伯の居所を知ることができる。・・・案内してさし上げよう」

「河伯・・・?」

「かの陰陽師が話をしていた、という川の老人のことよ」

「まことですか?」

博雅の顔にぱあっと喜色が広がった。もう、この美しいが得体の知れぬ風の神とやらを信ずる気になっている。

どのみち、晴明のもとにたどり着くにはこの男についてゆく他に、今の博雅には方策がない。

「礼は、そなたの笛を聴かせて頂ければ、それでよい。・・・よろしいかな?」

「は、はい」

博雅がうなずくと、風伯は枝の上に立ち上がった。

さほど太い枝ではないのに、たわみもしないどころか、ほとんど揺れなかった。

蝶のように、ふうわりと枝の上に立っている。

体の重さがまるでないかのようだ。

背に負うた弓を左手に取ると、右手で矢を一本、背の箙(えびら)から取り出し、木々の梢の間からのぞく青空に向けて矢をつがえた。

きりりと引き絞り、ひゅうと放つ。

矢は一目散に空の一点を目がけて飛んだかと思うと、目に見えぬ何かに吸い込まれたかのように、ふうと消えた。

が、風伯は額に手をあてて、矢の消えた辺りをじいっと見つめている。

それから、ふわりと枝から飛び降りて、博雅の前に立った。

「あちらだ、ゆこう」

それだけ言うと、沢から離れて足早に歩き出したので、慌てて博雅も後を追った。

その後ろから、薫が影のように動いてゆき、幼い童の姿をした子狸がちょこちょこと一生懸命駆けて行った。



山の斜面を横切るようにしてしばらく歩いてから、少し下ると、薮の中に清水が湧いているところへ出た。

その湧き水の畔に、風伯の放った矢が刺さっていた。

風伯は、これを引き抜くと、そのまま無造作に泉の中に投げ込んだ。

と、泉がぶくぶくと泡立ったかと思うと、

ざっぱーん

派手な水音と供に、

「痛や痛や」

と騒ぐ声がして、一人の老人が水の中から姿を現した。

灰色の髪と髭が長く、同じ色の衣を纏っている。

頭に、先ほど風伯が投げ込んだ矢が刺さっていた。

老人は、さも不快げに矢を引き抜き、風伯に向かって突き出した。

「何の真似じゃ、風の君よ」

風伯はうっすらと笑って、矢を受け取り、箙に収めた。

「ふん」

老人はすぐに風伯の背後に連れがいるのに気づき、

「今日はずい分とにぎやかじゃの。何用じゃ」

風伯は、博雅を目で示して、

「こちらのお方をご案内したのですよ、川のご老人」

老人は、博雅を見、

「ほう」

と、すうっと目を細めた。

「これはこれは」

軽く顎を上げて、じろじろと博雅を見つめた。

「葉二の君ではないか。・・・よもや、土御門の陰陽師の行方を尋ねて来たのではあるまいな」

博雅は目を瞠って、思わず二、三歩前へ出た。

「やはり、ご存知なのですね、晴明の居所を」

咳き込むように訊ねる博雅に、老人はやれやれと頭を振った。

「やはりのう。困ったことになった」

それから、風伯をにらみつけた。

「余計なことをしおって。このお節介が」

風伯は涼しい顔で笑っているばかりである。

「教えて頂けませぬか、晴明は今何処に・・・」

すがるような目で訊ねてくる博雅に、老人は少々困惑の態ですっと目を逸らし、

「気の毒じゃが、そなたには教えてさし上げられぬ」

「何故・・・」

「そなたのようなお人の行くところではない。関わりあいを持ってはならぬ」

「晴明はわたくしの大切な友、関わりあいを持たぬ、というわけには参りませぬ」

「ふうむ」

老人は感心せぬと言うような顔で博雅を見た。

「そこまで言うならば、話してきかせてやろう。何故、そなたが関わりを持ってはならぬ、と言うのかの」

「・・・」

「あの男はな、まだ童であった頃、たちの悪い女に呪をかけられてしもうたのよ」

「女!?」

「女というでも人ではない。白蛇の化身じゃ」

「白蛇・・・」

「蛇は水の精じゃで、我が眷属じゃ。中でも白蛇は妖力が強いことで知られておる上に、男を欲する女の情念とは恐ろしいものじゃて。あの男も、持って生まれた力が凄まじいが、まだそれを操る術が未熟じゃったでな。呪を解くことができず、ほどよき年になった頃、やってきた女に絡め取られてしもうたのよ」

「―」

博雅は、咄嗟にそれの意味するところを測り損ねたが、

「人の世でいえば一年ばかりの間、あの女に縛られ、夜ごと慰み物にされておったのじゃ」

「・・・」

博雅は目を落として足もとの草を見た。

何と言ってよいかわからなかった。

「思い余ってわしのところに相談に来たのじゃよ。あの女から逃れることはできぬか、とな。それで、あの女の目晦ましになる呪を教えてやったのじゃ。・・・あれ程の男が蛇の妖しなんぞに捕らわれておるのは余りに惜しいからの。」

博雅は、再び目を上げ、じっと老人の話に耳を傾けている。

「あの男は、わしが教えてやった呪のおかげで実に易々と女の目を晦まし、それからは全く女からは自由になった。じゃが、女にかけられた呪を解くことはかなわんかった。」

「何故・・・」

「それだけ、女の呪が強きものであったのよ。無理に跳ね返そうとすれば、我が身もろとも滅ぼさずにはおられぬほどにな。あの男も無理をしたくなかったのであろう、女の目を晦ませておけば、大事はない、とてそのまま放っておいたのじゃ」

「・・・」

「哀れなのは女の方よ。なまじ呪などで心が繋がれてしまっておるばっかりに、男恋しさの念が募る一方でな。それはそれは長いこと、おのが愛欲で我が身を焦がさんばかりであった。時には、大蛇と化して手当たり次第に男どもを食い散らかす有様じゃ。わしも手を焼いてのう」

老人は意味ありげな目つきになって、

「教えてやったのじゃよ。この夏以来、あの男が都を出て若狭の地に長逗留しておる、とな。都を離れればおぬしも近寄りやすかろう、とな」

「・・・何と」

―おれのせいなのか・・・。

博雅の動揺をよそに、老人は続けた。

「そなたは気づいておられなかったようじゃが、あの男は、女が身の回りをうろつき出したことにすぐに気づいてな、わしのところに女の居所を聞きに来たので、教えてやったというわけじゃ」

「それで晴明は・・・」

「いかにしておるかな。腹を据えて女の呪を解きに行ったか、あるいは再び女に捕らわれに行ったか・・・。よい女の姿になるからのう。案外忘れがたかったのやもしれぬな」

「そんな・・・」

「あるいは、逆に女を取り込み、自ら闇の眷属に加わることにしたか」

「闇の眷属に・・・?」

「驚くことはあるまい。もともとそういう素質のある男であることは、そなたもわかっておられたのであろう?・・・人の世に馴染む男でない、とな」

博雅は、何かひどく苦い物を飲まされたようた顔になった。

再び目を地面に落としてしまう。

「どうじゃ、そなたのようなお人が関わり合ってはならぬ、と言うたのがようわかったであろう。」

老人は、これで片付いた、と言わんばかりに口ぶりで、

「今日のところは家に帰り、あと七日ほど待っても陰陽師が戻らねば、あの男のことは諦めて、お一人で都へ戻られるがよい」

しかし、博雅はすっと目を上げた。

まっすぐに河伯を見つめる瞳は、老人も息を呑んで見惚れるほど凛として澄んでいた。

「いいえ、戻りませぬ。晴明の、白蛇の妖しのおるところへご案内下さい」

  

 
続く


 な、なんだかワケの分からないオリキャラがぞろぞろ出てきますねん・・・。

川の神と風の精とか、メルヒェンの世界ですわねん。

今回ちと獏版「陰陽師」の世界から遠ざかり気味かもしれませんので、ご了承下され(-_-;)

勝手に晴明の過去話、それもロクでもない過去を作っちゃってるし。

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