白蛇抄 〜風の章〜

 朝、目が覚めると、晴明がどこにもいなかった。

 名を呼びながら、さして広くもない屋敷の中をくまなく探した博雅は途方に暮れた。

 この夏、病後の静養のために小浜に移り住んで以来、晴明が何も告げずに出かけてしまうことなどなかった。

 途方に暮れて立ち尽くしていると、ふうわりと式の薫が現れた。

 「おお」

 博雅は安堵した。

 「晴明はいずこに?」

 問われて、薫は丁寧に頭を下げ、

 「昨晩、急な御用でお出かけになりました。二、三日は留守になさいますが、博雅さまにはご案じ召されぬように、とのことでございました。

 「二、三日?」

 博雅は、また不安になった。

 晴明が外へ出かけてその日のうちに戻らぬ、ということもこれまでになかった。どれほど遅くなろうと、必ずその日のうちに戻ってきた。

 「博雅さまのお世話は、わたくしが致しますゆえ・・・」

 「それは構わぬが」

 この夏、熱の病を患って以来、衰えていた体もかなり快復している。

 晴明は、

 「無理をしてはならぬ」

と言うが、博雅としてはすっかり元の体に戻っているつもりである。

 特別な世話というものも必要ではないのだが、

 「一体いずこへ行ってしまったのだ、晴明は・・・」

 取り残されてしまったようで、ひどく心もとない気持ちがするのは如何んともし難かった。



 しかし、二日たっても三日たっても晴明は戻らなかった。

 「何かあったのではないか」

 不安げに言う博雅に、薫はかぶりを振った。

 「晴明さまのお身に変事があれば、わたくしたち式も無事ではおられませぬ。わたくしがこうしておられることこそ、晴明さまがご無事でおられることの証。・・・ご案じなされますな」

 そう言われても、心細い気持ちを抑えられない博雅は、自ら里まで足を運んで、丸一日、晴明のことを聞きまわったが、里人に晴明を見かけた、という者は誰もいなかった。

 いっそ、国衙の役人に話をしようか、と思い始めた五日目の朝のこと。

 庭先に、思いがけない客が現れた。

 「殿さま、殿さま」

 呼びかけられて、簀子に出た博雅は、思わず顔を綻ばせた。

 「おまえは・・・」

 庭の真ん中でちょこんと膝をついている小童は、先ごろ、博雅が琵琶の手ほどきをしてやった狸の子が人の姿に化けたものであった。

 「お久しゅうございましゅ」

 狸の子は、ぺこりと頭を下げた。

 「琵琶の稽古は続けていような」

 「はい!明年の楽比べにも出られるよう、毎日稽古をしておりましゅ」

 「そうか、偉いなあ」

 博雅は、いっとき不安から解き放たれ、優しくうなずいた。

 「たまには、わたしにも聴かせにきておくれ」

 「・・・はい」

 子狸はおずおずとうなずいてから、

 「あの、今日はかかさまに言われて来まちた。もうひとりの殿さまのことで・・・」

 「もう一人・・・」

 博雅の顔色がさっと変わった。

 「・・・晴明どののことかな?」

 子狸はうなずいて、

 「昨日、ととさまが人の姿に化けて、里に下りていた時に、殿さまがもう一人の殿さまをお探しだったと聞いて、お知らせしてこい、とかかさまに言われまちた」

 「晴明どのの居所を知っているのかね?」

 博雅は、慌てて子狸に手招きし、廂の上に上げた。

 円座に座らせると、咳き込むように言った。

 「詳しいことを聞かせておくれ」

 子狸は、博雅の役に立ちたい一心で、よく回らぬ舌で懸命に話をした。

 それによると、先だっての楽比べの折に、腹を痛めて晴明に手当てを受けた狸が、遠敷の親戚を訪ねた帰り、遠敷川の上の方で晴明を見かけた、と言うのだ。

 「それは、いつのことかね?」

 「五日前の、朝早くでしゅ」

 「五日前・・・」

 博雅が晴明の不在に気づいた朝である。

 その狸は、このような刻限に、しかも、このような山奥で、と訝しく思ったものの、楽比べの折の礼を言おうと、近寄って声をかけようとした。が、

 「声はかけなかったのだね」

 「はい」

 それは、晴明があるものと話をしていたからであった。あるものとは、

 「川の神さまでしゅ」

 「川の神?」

 遠敷川の主、ということなのであろうか。子狸の説明はいまひとつ要領を得なかった。

 とにかく、その川の神とやらと晴明は、しばらく言葉を交わしていた、と思ったら、不意に双方ともふうと消えてしまった、という話であった。

 「消えた・・・?」

 博雅は一瞬不吉な想いにかられて、咄嗟に薫の方を見た。

 薫は、少し離れたところに控えていた。

 博雅は大きく息をついた。

 おそらく、晴明は陰態とやらにでも入り込んでしまったのであろう。

 そうなれば、もう博雅の力など到底及ぶところではない。

 薫に何事もないということを、晴明の無事の証として、ここで待っているより他はないのである。

 だが。

 「坊、その場所へ私を案内できるかね?」

 「博雅さま!」

 薫が式らしからぬ、慌てた声を出した。

 「できましゅ」

 子狸は、薫を気にしながらも、しっかりとうなずいた。

 「よし、では、今から私をそこへ連れて行っておくれ」

 薫が色をなした。

 「博雅さま、なりませぬ。晴明さまは必ずお戻りになりますゆえ、お屋敷でお待ち下さい」

 博雅は、薫の方へ向き直り。

 「晴明は二、三日で戻ると言うたのであろう?」

 「・・・はい・・・」

 「だが、もう今日で五日たつ。何かあちらで思わぬことが起こって戻れずにおるに相違ないよ。・・・もしかしたら、このおれでも役に立ってやれるかもしれぬではないか」

 「でも・・・晴明さまに叱られますわ、わたくしも、博雅さまも・・・」

 困り果てて薫が言うので、博雅は笑った。

 「そうだな。しかし、晴明も二、三日で戻ると言うたのに約束を違えたのだから、お互い様であろうよ」

 「・・・そうでしょうか」

 薫は首を傾げたが、博雅が立ち上がったので、慌ててふわりと立ち上がった。

 「ならば、薫もお供致します。」

 「何?」

 「博雅さまをお守りせよ、というのが晴明さまのお言いつけでございました。屋敷にお引止めできぬ、とあれば、せめてお供を・・・」

 博雅は薫を見た。

 薫が傍にいれば、晴明の身に変事が起こればすぐに分かるし、晴明の分身とも言えるその式に守られている、と思うのは、何やら心強いものがあった。

 博雅はうなずいて言った。

 「わかった、よろしく頼む」



 
続く


 えーと、「白蛇抄」は一応二部構成になってまして、この「風の章」は博雅視点で、もう一つ、同じ内容を晴明視点で書いた「雨の章」がありますが、こちらは一般の方が安心してお読み頂けない表現が多々入っておりますので、オフライン行きです。(-_-;)同人誌『風に舞う花、花に降る雨』(完売済)に収録。

 どちらか片方だけ読んでも、話が通じるようになっています。しかし、晴明視点の方がオフライン行きになっちゃうってのがね・・・。

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