翌日、賀茂保憲が源家の別邸を訪れたのは、まだ暑気も引かぬ昼下がりのことであった。
「これはこれは」
応対に出た晴明は、保憲の連れを見てひどく複雑な顔をした。
「先の内侍さまではございませんか。」
月草の襲の袿を身に着け、膝の上に小さな白い猫―よく見ると、尾の先が三つに分かれている―を抱いているのは、美しい女人であった。
先々帝の時に長く内侍を務め、田鶴(たづ)の局と呼ばれていた人物である。
「お久しぶりですね、晴明さま。相変わらずお美しくていらっしゃること」
かなりの年齢のはずなのだが、楽しそうに晴明を眺める顔は、微塵にも老いを感じさせるものではない。
と言って、娘のように若く見える、というわけでもない。
要するに年齢不詳なのだ。
内裏にあった頃は、賀茂忠行と親しい仲であると噂され、自らもかなり方術の心得があるとも囁かれた。そして、
「保憲さまは、今でもお局さまのもとへお通いなのですか」
晴明のあけすけな問いに、ほほほと笑い声をあげ、
「この方の出不精はあなたもよくご存知でしょう。たまにいらして頂けたと思うたら、済まぬが調べ物を頼まれてくれ、ですからね」
「では、羽賀寺の観音のことを都で調べて頂いている方とは」
「おお、田鶴どののことだ」
保憲は涼しい顔でうなずいた。
「おかげでいろいろなことがわかったようだよ」
「例えば、どのようなことです」
晴明が問うと、
「いや、おれも何も聞かされてはおらぬのだがな」
保憲はけろっと答えた。
しかし、田鶴の局は、真面目な顔になって、
「お話をする前に、博雅の中将さまにお会いできませぬか?」
「博雅さまに?なぜです」
晴明はかすかに顔をしかめた。
「お話を是非中将さまにも聞いて頂きたいのですよ。御像の行方もあるいは中将さまにお心あたりがおありやもしれませぬ」
「・・・」
晴明は思い当たる節がある様子で少し考え込んだが、気の進まぬ顔でうなずいた。
「わかりました。・・・しばらくお待ち下さい」
晴明が奥に入ってから少しして、保憲と局は薫に導かれて博雅の寝所に通された。
博雅は、床を離れ、髪を整え、きちんと直衣と烏帽子を身につけていたが、力のない様子で脇息に寄りかかっていた。
晴明は、その傍らにぴったりと寄り添っている。
客たちが入って来ると、緊張の面持ちでいずまいを正したが、やつれた様子に、保憲も眉を顰めた。
しかし、博雅は屈託のない笑顔を見せた。
「保憲どの、お久しゅうございます。少し病をいたしまして、このような有様でご無礼致します。」
「いや、どうかお気遣いなく」
やさしく答えた保憲から、博雅が田鶴の局に目を移すと、紹介しようと晴明が口を開くより先に、
「中将さまはお小さかったから覚えていらっしゃらないかもしれませんねえ。中将さまが父宮さまに連れられて先々帝にご挨拶に初めて参内された折りに、一度お会いしているのですよ。」
「そうなのですか?」
博雅は目を丸くした。そのような年齢の女人には見えない。
「その折り、内侍を務めさせて頂いていた者でございます。」
「我らは田鶴の御方とお呼びしているのだよ。」
晴明が言い添えた。
「そうでしたか。これは失礼致しました。」
博雅は丁寧に頭を下げた。
局は微笑みながら礼を返し、口調を改めた。
「ところで、羽賀寺の観音のことでございますが」
「作られた折りのことがわかりましたか」
「はい」
晴明が問うと、局はうなずいた。
「作られた仏師の方は東寺の僧であった方で、そのお弟子さん、という方にお会いできましたの」
「ほう」
「その方がおっしゃるには、羽賀寺の御像は、ある御方の面影を映したものだそうですのよ」
「ある御方・・・」
「その仏師の方は、東寺に参詣に来られたさる姫君を垣間見てしまい、その方の面影が忘れられず、若狭よりの依頼で観音の御像を刻む時、これを写したのだそうですわ」
「その姫君とは・・・」
「先の右京大夫、源旧鑒さまご息女封子さま」
博雅がはっと息を呑んだ。
「それは・・・」
局はやさしく博雅に微笑んでみせると、先を続けた。
「先々帝の御代に更衣として入内され、一の皇子をもうけられました。・・・亡き桃園の兵部卿宮の御生母にあたられる方ですわ。」
「桃園の?」
「では、博雅の」
保憲と晴明は、同時に博雅を見やった。
「ああ」
博雅はゆっくりとうなずいた。
「我が祖母にあたる方だ。」
「そうか、そういうことであったか」
晴明は得心がいったようにうなずいた。
「保憲さま、わかりました。観音像が消えたわけが」
「何?」
晴明は、手短に昨日博雅を訪れた紫苑の女の話をした。
「おそらく、その女人が・・・」
「なるほどな、そういうことか」
保憲も何やら納得してうなずいた。
「おい、晴明、何がわかったのだ?おれには何が何やら・・・」
博雅は当惑して晴明と保憲の顔を交互に見た。
晴明は、何とも言えない眼差しで博雅を見返して、
「だからよ。昨日ここへいらした女人は、おまえの祖母ぎみの更衣さまであったのよ。」
「何・・・」
「観音を刻んだ仏師は、おまえの祖母ぎみに恋焦がれてしまったのであろうよ。しかし、相手はやんごとない姫君で、帝に入内しようというお方、それにそもそも我が身は僧として女色を避けるべき身、叶わぬ想いを全てあの像に籠めたに違いないよ。」
「・・・」
「そのように強い想いの籠った観音が、50年もの間、朝な夕な有難い経を聞かされ続けた末に亡き更衣さまの御魂が乗り移ってしまったのだ。」
「何と・・・」
「そこへ慈遠どのが寺から観音を持ち出した。慈遠どのの母御は観音に何を祈ったと思う?」
「我が子の行く末・・・」
ぽつりと博雅が言うと、晴明はうなずいた。
「子を想う母の心に、更衣さまの魂が呼び覚まされたのだよ。おそらくは、慈遠どのの母御の弔いの折りにでもおまえの噂話を聞き、孫であるおまえの身を案じる余りに、抜け出してしまわれたのだよ。」
田鶴の局が口を開いた。
「更衣さまのことは、よく覚えております。お姿がお美しいのはもちろんですが、真に心映えの美しいお方でした。並み居る女宮さまや藤家の姫君方を差し置いて、一の御子を生されたことで、ずい分と妬まれて辛い目にも遭われたのですけれど、決して人を恨み、謗るようなことはなさらず、いつもにこにことされて、どなたにも、しもじもの舎人や端女にも優しくなさるようなお方でしたわ。」
局の話に耳を傾けながら、博雅を見やる晴明の目に、更に優しさが増したようであった。
「先々帝も、そのご気性をことさら愛おしんでおられたご様子でしたの。桃園の兵部卿宮さまに初めての御子さまがお生まれになると聞いて、更衣さまもそれはそれは楽しみにされていたのですけれど、その三年前に姫宮をお生みになってからお体がずっとすぐれませんでねえ。中将さまがお生まれになるほんの三月ほど前に、ふとしたお風邪がもとで儚くなってしまわれたのです。」
「・・・」
博雅は黙ってうなずいた。母が一度そんな話をしてくれたことを覚えていた。
「ですから、中将さまのことは殊更御心にかけておいでだったのでしょうね。」
局はしんみりと言った。
博雅は、すっと視線を落とした。じっと顔を伏せたまま、
「晴明」
「何だ」
晴明が優しく言葉を返すと、
「では、あの方はおれのお祖母さまであったのだな」
「そうだ」
「そうか・・・」
晴明が覗き込むと、博雅はぽろぽろと涙を流していた。
「あの方は、とても優しくして下さったのだよ。」
「うむ」
「真に、お優しい方であった。」
「うむ」
震える声で言うのに、晴明はいちいちうなずいてやった。
博雅の父、克明親王が醍醐天皇の第一皇子であったにも関わらず、帝位を継げなかったのは、「生母の身分が低かった」から、と言われてますが、当時、天皇の後宮に入るような女性は、全て内親王などの皇族か、皇族出身の賜姓源氏か、有力氏族であった藤原氏のいずれかで、文字通りの意味で「身分が低」かったわけではなかったようです。克明親王の生母の父源旧鑒も光孝天皇の皇子でしたが、官位は従四位下の右京大夫どまりで、政治的にはほとんど無力といってもよかった人物でした。だから、「生母の勢力が弱かった」から、と言った方が正しいようです。
また、長子が父の後を継ぐのが当たり前になるのは、日本でも近世以降のことで、この時代には、単に一番最初に生まれた皇子、というだけでは後継候補には挙げられず、権力者藤原基経の娘穏子の産んだ保明親王の方が後継者とされるのは当然の成り行きだったと思われます。
ちなみに、博雅のお祖母さまの更衣が亡くなられたのがいつか、というのはちょっと調べられなかったので、楊某のでっちあげです。が、3才年上の叔母さまがいるのは史実です。博雅って、有名人の身内が多いので、うっかりしたことを書くととんでもない嘘だってバレてしまうんでちと怖いですね・・・。
ついでに、田鶴の局は完全なオリキャラなんですが、内侍なんて重要な位の女官は、もしかしたら調べたら名前が残ってたりするかもしれませんので、「醍醐天皇の時にそんな女官はいなかった」ってわかっても突っ込まないで下さいね〜。