別邸に戻った晴明は、心持ち足早に屋敷に上がろうとして、はっと足を止めた。
形のよい眉をしかめ、
「何か来ておったな」
と、独りごちた。
とは言っても、害意を持ったものの気配ではない。
屋敷の中には、薫をはじめ数名の式を置いていたし、敷地の四隅には4人の神将を配している。
そんなものが入れるわけがないのである。
その気配はむしろ・・・。
晴明は急いで中に上がり、寝所に入った。
博雅は、単にくるまった姿で、廂に敷かれた円座に座り、脇息に寄りかかって、ぼんやりと風にあたっていた。
傍らには薫が控えている。
晴明が近づくと、香の薫りに気づいて振り向いた。ぱあっと顔に笑みが広がった。
「晴明、もう戻ったのか」
薫が軽く一礼し、少し離れたところに下がった。
晴明はうなずいて、傍らに腰を下ろした。
「すまぬな、一人にしてしまって」
「早かったなあ。羽賀寺の御像の行方はわかったのか?」
早かったと言いながら、博雅の顔は本当にうれしそうだ。
羽賀でのいきさつを語ってやると、童のように目を輝かせて聞いている。
「では、やはり御像が煙の如く消えうせてしまったことには変わりはないのだな」
聞き終えると、博雅は、軽く首を傾げて訊いてきた。
「うむ。保憲さまは何やら目星がついておられるようだが」
「ふうん」
博雅は、思いやりのこもった口調で、
「その慈遠という僧も気の毒だな。御像を持ち出すのはよくないが、母御を想う一心でのことなのだし、おかげで母御は心安らかに往生を遂げられたのだ。御像が消えてしまってどんなにか心細い思いをしただろう。」
「そうだな」
晴明は優しくうなずいてから、さりげなく訊ねた。
「ところで、おれがいない間、誰ぞここへ来なかったか?」
博雅は目を丸くした。それからかぶりを振った。
「いや、誰も来なかったぞ」
「人でなくても、何か普段見かけぬようなけものであるとか」
「いや・・・」
博雅は首を傾げて、
「おれが見たのはおまえの式だけだぞ。薫に青虫に葉常・・・」
それから、
「あと、見たことのない式が一人・・・」
「見たことのない式?」
晴明は少し身を乗り出した。
「おお。薄色の小袿を着ていて、頬のふっくらしたそれは美しい女人であったが、あれはおまえの式ではないのか?」
「そのような式はおらぬよ」
晴明は答えた。
「そうなのか?」
博雅は目を見開いた。
その女人が現れたのは、朝方、晴明が出かけてから少し経ってからのことであった。
博雅が褥の中でうつらうつらちていると、さらさらと衣ずれの音がした。
見ると、一人の女が傍らに腰を下ろすところであった。
紫苑の襲の小袿姿で、美しい黒髪を垂らし髪にし、頬のふっくらした、何とも優しげで楚々とした品のある、美しい女である。
「何か御用はありませんか」
優しい声で話しかけてきたので、博雅は少し喉が渇いていたため、白湯を所望した。
すると、紫苑の女は頷いて立ち、やがて須恵の器に白湯を汲んで持ってきた。
博雅が床の上に起き上がろうとすると、これに介添えし、博雅の両手に器を持たせ、手を添えたまま口もとへ運ばせる。
そんな一つ一つのしぐさに、細やかな思いやりがこもっている。
実のところ、晴明が出かけてしまって、少々心細い思いをしていた博雅は、それだけでずい分と心が慰められる思いがした。
「廂に出て風にあたりませんか」
優しく勧めるので、こくんと頷くと、女は円座を廂に持ち出し、博雅の肩に単を打ちかけて、廂へ導いた。
それから、博雅と並んで座り、庭の有様や遠くの山や海の眺めについてあれこれと語って博雅を慰め、その合間には博雅の体を気遣ってまめまめしく世話を焼いた。
何とも心穏やかで、慰められるひとときであった。
そして、ぼんやりとしているうちに、いつの間にか、紫苑の女は姿を消し、代わって薫が傍に控えていた。
「そこへおまえが戻ってきたのだよ」
博雅は言い、
「そう言えば、あの女人は他の式とは違うていたな。」
気配の微かなことで人ならぬ身であることがわかるのは、式と変わらぬが、
「血が通うている、というか、己れの意志を持っているように感じられたのだよ。・・・それに、何かとても懐かしい感じがしたなあ。おまえの式でないなら、一体、どなたであったのだろう。」
晴明は微かに眉をひそめて考え込んでいたが、
「それはおまえの母ぎみではなかったか?」
博雅はむっとした。
「いかなおれとて、母の顔ぐらいは覚えておるぞ。・・・確かに母のような感じのする方ではあったが・・・」
母の面影を思い出したのか、少し目を潤ませる。
晴明はそれを慰めるように腕に触れてやり、
「悪いものでないのは確かだろうよ。・・・むしろ、おれの式がおまえに近づくのを許したということは、その女人がおまえに必要な方であった、ということだ。」
「そうなのかな」
博雅はほうっと吐息をついた。
「少し疲れさせてしまったな。もう休め」
晴明が言うと、博雅はうなずいて、晴明の介添えを受けて、寝所へ戻った。
「そろそろ、夕餉の支度をせねばな」
晴明が厨へ立ち去ろうとすると、褥に潜り込もうとしていた博雅は、慌てて身を乗り出して晴明の狩衣の袖をつかんだ。
「・・・まだよいであろう?もう少しここへいて話をしてくれぬか。」
晴明は、何とも言えない表情で博雅を見返した。
いたいけな子犬のような目でこちらを見上げている。とても振り切れるものではなかった。
「そうだな。食事の支度など式にさせればよかろう。」
晴明は柔らかく微笑してうなずき、褥の傍らに腰を下ろした
前回の反動で、ちと甘甘になってしまったようです。(^^;)
まあ、博雅も病気で気が弱くなってしまってるということで。
今回、ちょっとだけ出しましたが、晴明は十二神将を式として使っているとする説話があって、『王都』なんかではバリバリに使われている設定ですが、考えてみれば、十二神将って、仏法の守護者ですよねえ。それを式にしちゃうって晴明って何サマ・・・。
タイトルの「悲母観音」について、狩野芳崖の有名な作品が連想されますが、楊某が小学校か中学校の時に教科書で初めてこの絵を見て、何て美しい絵なんだろうとひどく心を打たれたのをよく覚えています。