羽賀の里は、小浜にある若狭国の国府から、北へ三里ほどである。
代々の帝の尊崇の篤い羽賀寺は、寺域も広く、立派な伽藍を持つ大きな寺であった。
晴明と保憲を出迎えた住持は、都の名高い陰陽師が二人も、それも帝の命で遣わされたと聞き、見ていて気の毒なほどうろたえていた。
二人はすぐに観音像の安置されていた本堂に通された。
厨子の戸を開いて中を改めた晴明と保憲は顔を見合わせた。
「御像はいつもこの中に納められているのですか?」
晴明が住持に尋ねた。
「はい」
「戸は常に閉まっていつのですね。」
「はい、秘仏でございますから、勅使がお見えになった折にしか戸は開けませぬ。塵をお払い申し上げる時も、戸は開きますが、御像の覆いの布は外しませぬ。」
それから、住持は困り果てた顔で、
「実は近いうちに勅使を寺にお迎えすることになっておりまして、本尊の厨子を清めたのもその支度のためでございました。」
御像が消えた件が帝の耳に伝わってしまったのも、そういったことがあったからである、という。
「そうですか」
晴明はうなずいて、
「御像が消えた時に本堂にいた僧を呼んで下さい。」
呼ばれたのは、若い僧ばかり4人であった。まず、晴明は厨子の戸を開いた慈遠という僧に像が消えてしまった折の様子を訊ねた。
慈遠が淡々と述べた顛末は、概ね前の日に保憲が語ったことと同じであった。
晴明は、今度は他の僧に問うた。
「あなた方は、この慈遠どのが厨子の戸を開く時、いずこにおられたのですか?」
すると、いずれの僧も、広い本堂のあちこちで掃除をしており、かなり離れたところにいたようだった。
ただ、3人とも厨子が見える所にはおり、慈遠が最初に戸を開いた時には、布に覆われた御像が確かに見えた、と口々に言った。
「では、慈遠どのが二度目に厨子の戸を開けるところをご覧になられましたかな。」
その問いには、三人とも否であった。いずれも慈遠の叫び声で厨子の中が空であるのに気づいた、という。
「よくわかりました。」
晴明はうなずいた。それから、晴明が僧たちに質問している間、ずっと後ろで腕を組んでふむふむと聞いているだけであった保憲を振り返った。
「この辺りの山を調べてみましょう。何か妖しの痕跡が見られるやもしれませぬ。」
「そうだな」
保憲はうなずいた。
晴明は何気なく懐から一枚の紙を取り出し、しばらく手の中で弄んでから、幾重にも小さく折り畳んだ。
そして、4人の僧に軽く会釈をしながら、そのすぐ前を通り過ぎていった。
二人が境内を出て、寺と里とを懐に抱くようにして取り囲むなだらかな山に入る道を歩いていると、すぐにぱたぱたと足音が追ってきた。
立ち止まって振り返ると、慈遠が蒼ざめた顔で走ってくる。
二人に追い着くと、肩で息をしながら、
「晴明さま、保憲さま、お二人にはお見通しだったのですね。」
慈遠の手には、先ほどすぐ脇を通った際に晴明がその手にすべりこませた紙切れが握られていた。
「やはり、あなたでしたか」
晴明はうっすらと微笑した。
「何があったか話して頂けますか?」
「はい」
慈遠はうなずいて語り始めた。
ひと月ほど前、羽賀の里に住む母が重い病にかかったので、慈遠は許しを得て母の看病をするため家に戻っていた。
慈遠の看病にも関わらず、母の病ははかばかしくなく、気持ちの弱くなった母はこんなことを口にするようになった。
「死ぬ前に一度でよいから、お寺の観音さまの御顔を拝したいものだねえ。」
羽賀寺の観音像が見たい、と言うのだ。
母想いの慈遠は、それを聞くと矢も盾もたまらず、夜更けにこっそり本堂に忍び込み、己れの背丈に少し足らぬくらいの観音像を背中に担いで密かに持ち出してしまったのだ。
住持さまに特に許して頂いた、と嘘をついて、母に観音像を見せると、母は涙を流さんばかりに喜び、その美しさにひどく胸を打たれていた様子であったが、これで思い残すこともなくなったのか、その翌日、穏やかに息を引き取った。
涙に暮れながらも慈遠は母の弔いと遺品の整理に慌しい日々を過ごしたが、それらが全て落ち着いた時、はた、と観音像のことを思い出したのである。
慌てた慈遠が、己れが寝泊りしていた部屋へ行って、観音像を隠してある櫃の中を覗くと、
「櫃は空だったのでございます。」
慈遠は泣き出しそうな顔で言った。
櫃には確かに錠を下ろしてあったのだが、弔いのごたごたに紛れて盗人が入ったものか、中には観音像を包んでいた布しか残っていなかった。
慈遠は呆然とした。
呆然とする中で、まず彼の頭に浮かんだのは、観音像を戻せないとあれば、本堂の厨子が空であるのはまずいということであった。
そこで、残された覆い布の中に、木の棒に衣などを巻きつけた物を詰め、何とか観音像が中に入っているように見せかけ、密かに厨子の中に安置しておいた。
そして、何とかして観音像の行方を探そうと思ったが、世慣れぬ見習い僧の身、人に知られずにそのような手配をする術もわからぬまま、悶々と日は過ぎてゆく。
そんな慈遠を更に追い詰めたのが、勅使派遣の知らせであった。
勅使の参詣には、観音像の覆いが外されてしまう。
進退窮まった慈遠が思いついたのが、妖しの仕業で観音像が消え去ったように見せかける芝居であったのだ。
本堂の塵払いを行うことになった前の夜、慈遠は厨子の中に仕掛けをした。覆い布の中に詰めていた物を全て取り去り、覆い布だけを厨子の中に糸で吊るして、あたかも遠目には像があるかのように見せかけたのである。
他の折りには、決して厨子の戸は開けぬので、慈遠が厨子の塵払いを自らかって出て、他の僧が近くにおらぬ時を見計らって戸の開けることができさえすれば、仕掛けは見破られずに済む。
塵を清める振りをして糸を切り、すばやく戸を閉めてから、すぐにまた開けば、あたかも一瞬のうちに像が消えたように見えるであろう。
「なるほど」
慈遠の告白に、晴明はうなずいた。
慈遠が晴明に渡された紙を開くと、そこに長い白い麻糸が一本入っていた。
「それが厨子の隅に落ちておりましてな。」
「はい」
慈遠はうなずき、
「晴明さまにこれを手渡された時には仕掛けを見破られたと観念致しました。―わたくしはどうしたらよいのでしょう。」
慈遠の気がかりは、我が身に下される罰のこともあったであろうが、それよりも、失われた観音像の行方の方が重いようであった。
「思えば、あのように有難い御像を、わたくしごとで持ち出してしまうとは、ひどい心得違いを致しておりました。我が身は、もはや次の世にても救われることはないであろうと覚悟は致しておりますが、何分、御像のことが・・・」
「あなたならば、よくよく悔い改め、一心に修行に励めば、御仏もお許し下さいましょうよ。母御を想うお気持ちから出たことですし」
晴明は慰めた。
「わたくしも保憲さまも、このことをお寺にも主上にも告げるつもりはありませぬ。」
「まことですか?」
慈遠は驚いて二人の顔を見比べた。保憲は笑いながらうなずいて見せた。
「御像の行方については、わたくしたちで調べましょう。あなたの母御のお宅へ案内して頂けますか?」
「は、はい!あ、ありがとう存じます!」
慈遠は思わずその場に膝をつき、両手を合わせてふし拝んだ。
今は住む人のない慈遠の母の家へ足を運び、問題の櫃を改めた晴明と保憲は、寺へ戻る慈遠と別れ、羽賀の里を後にした。
「あれは盗人の仕業ではないな」
国府に続く道を歩きながら、保憲が言った。
「はい」
晴明はうなずき、
「これから、どう致しましょう。」
すると保憲は、
「実はな、今朝方都から知らせが届いてな」
「都から?」
「くだんの観音像について調べて頂いている方からだ。」
「何かわかったのですか」
「よくはわからぬが、とにかく明日、こちらへお見えになるそうだよ。」
「はあ」
「その方のお話から、何か手がかりが掴めるやもしれぬ。ひとまず、今日は、おまえは博雅さまのもとへ戻っておれ」
「明日はどこへもゆきませぬよ」
「わかっておる。そちらへ、その方をお連れするよ。」
晴明の穏やかながら断固たる口調に、苦笑しながら答えた後、保憲はふと思い出すような表情になった。
「実はな、晴明」
「はい」
「おれは、若い頃父の供で羽賀に来たことがあってな」
「ほう」
「やはり、この羽賀寺での用であって、当時の住持が父と懇意にしておったので、特別に観音像を見せてもらったのだよ」
「そうですか」
「確かに、評判に違わぬ、それは麗しい姿の仏であったが、今思い返すとな、誰ぞに面影が似ているような気がするのだ。」
「昔通われていた女の方ですか」
晴明は混ぜっ返したが、保憲は軽く受け流した。
「ぬしと違うてな、おれはついぞ、あのような美女とは縁がなかったよ。・・・誰に似ているのであったかなあ。」
ミステリーじゃないんで、トリックが甘いとか突っ込まないで下さいね。(^^;)
現在の羽賀寺は、伽藍があらかた焼失してしまって、本堂だけが里のはずれの丘の上にぽつんと立っている、ちょっと寂れた感じのお寺です。
でも、歴史の古い、由緒あるお寺なので、きっと晴明たちの時代には、大きなお寺だったんじゃないかなあ。