悲母観音

 文月の末の候、まだまだ暑い日が続いていたが、海を見下ろす丘の中腹に、小じんまりと建つ別邸は、こんもりとした森に囲まれて、いかにも涼しげであった。

 庭を横切る小さなせせらぎの音も、暑気を遠ざけるようである。

その水音に混じって、細い笛の音が流れてきた。

涼やかな風を誘うような、清らかな音色は、しかし、すぐに頼りなく途切れてしまった。

笛を口から離して深々と息をついた博雅を気遣わしげに眺めていた晴明は、そっと声をかけた。

「無理はするな。しばらく休め。」

「うん・・・」

博雅は、心残りそうに手の中の葉二を眺めた。

楽に誘われる心に、病で衰弱した体がついてゆかぬのがもどかしい。

「さあ」

晴明に促されて渋々その腕にすがって立ち上がり、廂から寝所へ戻る。

床に入って横になり、ほっと息をついた博雅に、晴明は優しく声をかけた。

「冷やでも持ってこようか?」

博雅はかぶりを振り、

「すまぬ。面倒をかけるな。」

と、申し訳なさそうに言うので、晴明はことさらに軽い調子で、

「病人が気を使うものではない。」

カタカタと車の音が聞こえたのは、その時であった。

「客かな」

博雅が言うと、晴明は困ったような顔になった。

都からは、博雅の容態を案ずる使いが、かなり頻繁に訪れるし、その筋に関する晴明への頼みごとも、ひきを切らない。

静かな療養の地ながら、結構来客は多いのだ。

しかし、この日の客は朝方前触れがあった。

軒下で、晴明にしか聞こえぬ声でにゃあにゃあと鳴きたてる黒い猫である。

「おれの客だ。おまえは気にせずに休んでおれよ」

晴明は言いおくと、寝所を出た。

そこへ、ふわっと式の薫が現れた。

「賀茂保憲さまがお見えです。」

「お通ししなさい」

晴明が命ずると、薫は再びふわっと姿を消した。

別間へゆくと、もう、そこには賀茂保憲が座していて、薫に酌をさせていた。

晴明の足もとにどこからともなく現れた黒い小さな猫が、矢のように飛んでいって、保憲の膝に飛び乗った。

「おお、ご苦労であったな」

保憲が喉をさすってやると、猫又は気持ちよさげに目を細めた。

「どうした風の吹き回しですかな。お屋敷からも、めったなことではお出にならぬ方が、このように遠方まで足をお運びになるとは」

差し向かいに腰を下ろした晴明が言うと、保憲は渋い顔で、

「ぬしが都におらぬせいだぞ。どこぞのお節介がそれは晴明か保憲でなければ無理でしょうなぞとあの男に吹き込むものだから、ならば折りよく晴明は若狭におりまする、とおれが言ったのに、それなら、おまえが行って晴明に知らせ、共にことにあたれ、ときた。」

大げさにため息をついて見せる。

「全く、父が亡くなって以来だ。このおれが都の外に出るなど」

結局、自分に押し付けるつもりだったのではないか、と晴明が内心苦笑していると、保憲は、ふと真面目な顔になった。

「どうだ、博雅さまのご様子は。余りはかばかしくないようだな。」

晴明は沈痛な面持ちになってうなずいた。

「ここへ来る途中で笛の音が聴こえたのだが、何とも頼りなげであったなあ。美しいのはまことに美しかったが。」

保憲は労わるように弟弟子を見た。

しかし、晴明の白い顔は、気を取り直すように、すっと表情を消した。

「・・・して、御用の向きは何です。私か保憲さまでなければ無理であろう、というのは」

「そうそう」

保憲も、すぐにいつもの調子に戻った。

「おぬし、羽賀寺を知っておるか。」

「元正の帝の勅願により、行基上人がお始めになったと言われる寺刹でありましょう。ここから近いと聞いておりますが。」

「行ったことは?」

「ございません」

「近くであろうに」

「博雅をおいて寺詣でなど致しませぬ」

晴明はにべもない。保憲は苦笑した。

「そうであろうよ。用向きとは、その羽賀寺のことだ」

「ほう」

「実はな」

保憲は手にした盃を干してから、

「羽賀寺の本尊の観音像が消えてしまったのだよ。」

床に置かれた盃に、薫が瓶子の酒を注いだ。

「盗まれたのですか?」

「いや」

保憲は首を振った。

「文字通り、煙の如く消え失せた、ということになっておる。」

「どういうことです?」

「それはこういうことなのだ。」

羽賀寺の本尊は秘仏であり、いつもは丁寧に布にくるまれて、厨子の中に安置されている。

それが、数日前の朝、数名の僧が本堂の掃除をしていた折り、ある僧が厨子の戸を開いて中の埃を除き、いったん戸を閉めた。

そして、ほんの数瞬ののち、何気なくもう一度戸を開いたところ、

「中は空であったのよ。」

ただ、厨子の底に、観音像を覆っていた布が、わだかまっているだけであったのだ。

五尺(約150cm)足らずの大きさの木造の仏で、ひどく重たい、というわけではないが、瞬時に懐などに隠してしまえるものでもない。

厨子の戸を最初に開いた時には、他の僧たちも、確かに中に布で包まれた像が納められているのを、遠目ながら見ている。

「これは、まさしくたちの悪い妖しの仕業であろう、と大騒ぎになってな。」

寺としては表沙汰にしたくなかったのだが、何しろ、羽賀寺というのは代々の帝の尊崇の篤い寺である。

「ふとしたことで、あの男の耳に届いてしまったのだよ」

「なるほど」

晴明は、そう言えば出入りの行商人の噂で、近在の大きな寺の本尊が煙の如く消えうせた、という話を耳にしたことを思い出した。

その頃は、ちょうど博雅がまた熱を発し、幸いすぐに引いたのであるが、晴明としては外のことに構っておられる余裕などなかった、というところであったのだ。

「無くなった観音像は、かれこれ50年ほど前、都の腕のよい仏師に彫らせた、大変に貴重なものなので、あの男も気にしてな」

「それで、保憲さまがはるばる若狭まで遣わされたのですね。」

「そういうことだ。」

保憲はうなずいてから問うた。

「どう思う?」

「大体の目星はついておられるのでしょう?」

「まあな。だが、ぬしの考えも聞いておきたいのだよ。」

晴明は軽く首をすくめ、あっさり言った。

「もし、好んで奇を衒う盗人の仕業でなければ、これは呪でしょうな。」

「うむ」

「これまでも、描かれた絵や彫られた像が動き出したり、消え失せたり、といったことはよく目にしておりますが、いずれもそこに秘められた人の心が、絵や像に呪をかけるほどに強いものであったがゆえのことでございました。」

「おれの考えも同じだよ。」

保憲はうなずいた。

「都で、件の観音像が作られた折りのことを調べてくれるよう、人に頼んである。あとは、寺へ行って話を聞かねばならぬのだが―」

そこでいったん口を切ってから、

「これから共に来てくれぬか?」

晴明は眉一つ動かさず、答えた。

「ゆけませぬ」

が、保憲もその答えを予期していたものであったらしく、顔色を変えない。

「あの男の命ぞ」

「今は、博雅を一人でおくわけにはゆきませぬ」

「よき式をつけておけばよいではないか。その気になれば、瞬時に戻るくらいわけもないであろう。」

「とにかく、ゆけませぬ」

晴明は取り付くしまもない。

保憲は軽く咳払いをしてから、さも曰くありげな口調になった。

「これは、まだはっきりした話ではないので、言わずにおこうと思ったのだがな」

「何をです。」

「こたびの一件、博雅さまと関わりがあることやもしれぬのだ。」

「博雅と?どういうことです。」

晴明の顔にさざ波が走った。

「都での調べがつかぬうちは、はっきりしたことは言えぬのだが、あの観音像は、博雅さまと縁(ゆかり)のあるお方に関わりがあるのやもしれぬのだよ。」

「ほう」

「もしかすると、ご静養中の博雅さまの身辺をお騒がせすることになるやもしれぬぞ。」

「・・・」

「早いうちから、おぬしが関わっておいて、手を打っておいた方がよくはないか?」

どうも、まずい相手に弱みを握られてしまったようだ。晴明はため息をついて、

「わかりました。ゆきましょう。」

「おお、そうか、行ってくれるか。」

保憲は、わが意を得たりと言わんばかりに、大きくうなずいた。

「ただし、明日の昼のうちですぞ。式が何か知らせて寄越したら、本当に瞬時のうちに戻ってしまいますからな。」

晴明は釘をさしたが、保憲は飄々としたものだ。

「わかっておる、わかっておる」



保憲は、その日は国衙(国司の役所)に泊めてもらうと言い、

「邪魔はせぬよ。」

と言って、去っていった。

それを見送ってから、晴明が寝所へゆくと、博雅は横になったまま、ぼんやりと庭を眺めていた。

傍らに腰を下ろした晴明は、博雅に関わりがあるやもしれぬ、という件りを除いて、保憲が持ち込んだ話を聞かせた後、

「というわけで、おれは明日の昼、保憲さまと羽賀の里へゆかねばならぬ。式を幾人か置いてゆくし、何かあれば、すぐに戻るからな。」

顔の肉が落ちてしまっているため、余計に大きく見える瞳を見開いて、博雅は話を聞いていたが、残念そうに吐息をついた。

「羽賀寺の観音は、それはお美しい御像だと評判だそうだよ。・・・おれもゆけたらなあ。」

それから、柔らかく微笑して、

「羽賀の里は気持ちのよいところだそうだ。おまえ、ここへ来てから、ずっとおれの世話でここに籠りきりであったろう?おれは、一日くらいなら、一人で大丈夫だから、ゆっくりしてくるとよいよ。」

晴明は少し黙って、その弱々しい微笑を見つめていたが、

「病人が気を使うなと言うておろう?」

白い指をさしのべて、ほつれた髪を撫でつけながら、囁くような声で言った。

「遅くはならぬよ。」



続く


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