保憲が源博雅の屋敷を訪れたのは、晴明が賀茂家を訪れた翌日の夕方であった。名乗るとすぐに博雅の寝所に通された。
昏々と眠り続ける博雅の顔は、ひどくやつれていた。晴明の屋敷で見かける、彼の明るい顔を知るだけに、なおさら痛々しい。
晴明は、博雅の枕もとに端然と座していた。常の如くに、落ち着き払っているように見えたが、童の頃から見知っている保憲の目には、博雅の顔にじっと注がれるその視線に悲痛な色を十分すぎるほど見てとることができた。
傍らに、蘇芳の袿を着た品のよい初老の婦人が座っていて、博雅の顔や首筋をぬぐったり、水を含ませたり、甲斐甲斐しく世話をしている。博雅の乳母、萩生と紹介された。保憲は彼女と向かい合う形で博雅の寝床の反対側に座した。
「では、始めましょう。」
晴明が口を開いた。萩生は手を止め、身を引いた。一言も発せず、じっと座している。
「保憲さま、夜が明けるまでにわたくしが戻りませなんだら、これでわたくしを呼び戻して下さいませ。」
晴明は、一本の長い針を保憲に差し出した。保憲は受け取り、懐紙に包んでふところに入れる。
「これで、おまえのぼんのくぼを突けばよいのだよな。」
「はい」
晴明はうなずいた。それから、改めて博雅の方に向き直り、居住いを正す。
両手を博雅の肩に置き、ゆっくりとかがみ込んだ。触れ合うかと思うほど、顔が近づいたところで、ふうっと動きが止まり、ぴくりとも動かなくなった。
博雅は、窮した挙句に決心していた。
―おれができることをするしかないか。
自分の胸にかけられた女の手をそっと外し、ふところから葉二を取り出した。
「申し訳ないが、あなたが望んでおられるような形で、あなたをお慰めすることは出来ませぬ。」
女の顔に、かすかに苛立ちの表情が浮かんだ。しかし、女が口を開く先に、
「代わりに、笛を吹いてさし上げましょう。」
「笛を?」
「わたくし如きの笛でお慰めできるかどうかは、心もとないのですが・・・。」
言うなり、博雅は葉二を唇に当てた。すうっと澄んだ音色が立ちのぼる。
女は、2、3歩後ずさりをし、まじまじと笛を奏でる博雅を見つめた。
目が金色の炎を化し、紅い唇から、鋭い牙先がのぞいたが、博雅は気づかない。
しかし、女は、笛の音色に捕らわれたかのように、その場で動かなくなった。