空にか細い月がかかっている。

                   車の中で、博雅はすまなそうに言った。

                   「すまぬなあ。気の進まないものを無理に来てもろうたのに。」

                   くだんの辻に足を運んではみたものの、かくべつ妖しの気配などは見当たらなかった、その帰途のことである。

                   「俊光どのの病は、妖物の仕業ではなかったのであろうよ。」

                   「いや」

                   晴明は、考え込んだ様子で、

                   「車をつきぬけた影、という話が気になる。明日になったら、俊光どのの屋敷をお訪ねしてみよう。」

                   「そうしてくれるか。」

                   ごとり。

                   突然、車が止まった。

                   「どうした?」

                   博雅が物見窓からのぞこうとするのを制して、晴明は前の簾を細く掲げた。

                   「ほほほ。こちらじゃ、晴明。」

                   よく透る女の声が車の後方から響いた。止める間もなく、博雅はぱっと後ろの簾を押し上げた。

                   美女の姿をした狐は、今度は被衣をつけないまま、道の真ん中でぼおっと光っていた。

                   「妖物!」

                   飛び出そうとする博雅の肩を、晴明は押し止め、耳もとでささやいた。

                   「おれの客だ。おまえはここで待っておれ。車の周りには結界がはってある。決して出て来てはならぬぞ。」

                   「しかし―!」

                   博雅の異議を無視して、晴明はひとりで車の外に出て、狐の女と対峙した。

                   「謀りましたな、狐どの。」

                   狐の女の薄ら笑いは輝くばかりの美しさである。

                   「源博雅は嫌いじゃが、あやつを使わねばそなたは動かせぬと思うての。」

                   己れの名が出たので、車の中の博雅の表情が引きつった。

                   晴明は不快げに片方の眉をぴくりと動かした。ふところから何やら取り出すと、ぱらっと狐の足もとにばらまいた。

                   「何じゃ、これは」

                   狐は少し後ずさった。その、種のようなものが散らばっている地面は踏めぬらしい。

                   晴明は印を結び、呪を唱え始めた。それにつれて、種は少しづつ地面に潜り込んでいく。

                   「わらわを封じてしまおうと言うのかえ。」

狐は土精であるので、封じ込めてしまうためには、「木剋土」で木の気のものを用いねばならない。先だっては不意打ちのこととて、その場しのぎで火を用いるより他なかったが、火では完全に封じてしまうことはできぬ。

                   晴明は、呪をかけた特別な種子を用いて、木精を大がかりに生成させようとしているのである。

                   「小賢しい。」

                   狐の女は、おのが放つ輝きの中で、徐々に正体を露わし始めた。

  鼻が長くなり、顔が細くなり、鼻と口が前にせり出して尖り、目が細くつり上がり、豊かな黒髪がざわざわと逆立ったかと思うと、銀色に輝く毛並みとなって全身を覆う。

                   四足で立った巨大な狐は、口から牙と紅い舌をのぞかせながら、金色の目を光らせ、身構えた。

                   「晴明!」

                   博雅が車から身を乗り出した。

                   晴明は、動ずる様子もなく、呪を唱えている。

                   種子が潜り込んだ地面から、無数の青い芽が吹き始めた。

                   狐は、晴明目がけて飛びかかろうと、身を低くしならせた。

                   「危ない!」

                   博雅は太刀をつかんで飛び出した。

                   「博雅!来るな!」

                   晴明は振り返って叫んだ。

                   「かかりおったな!」

                   跳ね上がって晴明に襲いかかった狐は、空中で身を翻し、結界を踏み越えた博雅に飛びかかってきた。

                   博雅の手は、反射的に太刀の柄にかかったが、抜く間もあろうか、狐の両前足が博雅の肩にかかる。

                   金色の目が間近に迫って来た。

                   と、次の瞬間、狐の姿はふいっと消えた。

                   「博雅!」

                   同時にがくっと膝から崩れ落ちた博雅を、走り寄った晴明が抱き止める。

                   顔を上げて晴明を見た、その目は博雅のものではなかった。

                   金色に輝く狐の目であった。

                   そして、その口から発せられた声も、

                   「かかったな、晴明。」

                   「最初から博雅が目当てであったのか!?」

「この男さえいなくなれば、そなたを手に入れることなど容易いわ。見ておれ、晴明。わらわはこの男を内側から喰ろうてくれる。じわじわと痛めつけた末に、喰い尽くしてくれるわ。」

                   頭をのけぞらせて哄笑した。

                   そして、ふっと目の色が、博雅の黒い色に戻ったかと思うと、その目を伏せ、晴明の腕に崩れ折れた。

                   「・・・博雅?」

                   頭を抱きかかえて、そっとゆすったが、目を伏せたまま動かない。

                   鼻腔に手をあてると、緩やかな呼吸はあった。

                   晴明は、博雅の動かない頭を胸に抱き寄せ、唇を噛んだ。

 

               続く


えーと、ここに出てくる呪法とかは、全部作者のでっちあげなんで、その筋の専門家の方、突っ込まない下さいね(^^;) あ、狐が土精ってのはでっちあげじゃないです。でも、それを封じるのに種まきをするってのは、我ながらどうだろう・・・。    

 

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