山蘭(やまあららぎ)

 

               月のない夜だった。

                  人気のない堀川小路を一台の牛車が、ほとほとと北に向かって上っている。

                  牛のそばについているのは、牛飼童ではなく、緋色の唐衣をまとった若い女だ。顔の高さに掲げられた手の灯

               りは、たいまつではない。上向きに広げた手のひらから、じかに炎が生じているのだ。

                  女の他に、車につきそう従者らしき姿はない。

                  ふと車が止まった。

                  どこからわいたのか、道の真ん中に被衣(かつぎ)をかぶった女が立っていて、行く手をふさいだのだ。

                  被衣の女は、しずしずと車に近寄った。

                  「安倍晴明さまでございますね。」

                  女は、はっきりとしたよく透る声で呼びかけた。

                  車の簾が掲げられ、白い狩衣をまとった男が半身をのぞかせた。

                  女の姿を見とめると、形のいい眉をしかめ、何のいらえも与えない。

                  「あれまあ、これはお珍しい。」

                  被衣の下からのぞく唇がにっと笑った。

                  「今宵は源中将さまはご一緒ではないのですね。これは好都合。」

                  晴明は、この上もなくいやな顔をした。

                  「はるばる唐土の地よりおいで頂いた御年一千歳にもなろうかという、白狐どのが、わたくし如きに一体何の御

                 用でしょう。」

                  「ほう」

                  女はするっと被衣をはずした。この世のものとも思われぬ美しい顔が闇に浮かび上がったのは、晴明の式の灯

                 りによるものではない。自らぼおっと光を放っているのだ。

                  「わらわの正体を見破ったか。」

                  「あなたさまのような強い気をお持ちの方は、ようよう気配を隠しきれるものではございませぬ。」

                  晴明はさりげなくふところに手を入れた。

                  「かつて、唐土の地では絶世の美女の姿でかの国の帝をたぶらかし奉り、一国を滅ぼされたこともあるお方、

                次は、この国を滅ぼそうとでもお考えなのですかな。」

                  女は頭をのけぞらせ、声をたてて笑った。

                  「さすがよのう。わらわの目にかのうただけのことはある。」

                  それからまっすぐ晴明を見た。その瞳の色は金色だった。

                  「あれは、ただ哀れな男どもがおのれの愚かさで国を滅ぼした罪を勝手にわらわになすりつけただけのこ

                 と。」

                  少しずつ車の方ににじりよって来る。

                  「それに、わらわはこの国の惰弱な帝になど興味はない。」

                  その表情がえもいわれぬような艶を帯びた。

                  「わらわが欲しいのは、そなたのような美しく優れた男じゃ。」

                  牛車の轅に手をかけた。妖しが間近にいるというのに、牛は騒ぎもしない。

                  「のう、晴明」

                  ささやく声が甘くかすれた。

                  「聞くところによると、そなたの母は我が眷属であるとか。」

                  晴明は視線も動かさない。

                  「それは埒もない噂に過ぎませぬ。」

                  「わらわにはわかる。そなたはわらわの側におるべきものじゃ。愚かしく哀れな人の世などと共にあってはなら

                 ぬ。」

                  さしのべた袖口から、白くなまめかしい手首があらわになった。

                  「わらわのものとなれ、晴明。わらわと共に永遠に楽しく生きようぞ。」

                  自ら妖光を放つ顔は、おそろしいほどに艶やかである。

                  が、晴明は微動だにもせぬ。

                  「今宵は、あのいまいましい、邪魔な源博雅もおらぬ。さあ」

                  その瞬間、晴明は素早い動きでふところから護符を出し、女の顔にはしと投げ付けた。

                  「がっ!」

                  女がひるんだすきに、式を呼んだ。

                  「かがり!」

                  式の体がゆらりと宙に浮かび、緋色の唐衣が光を帯びたかと思うと、そのものが炎となった。

                  晴明は簾を下ろし、身を翻して、車の後ろから走り出た。

                  印を結んで、呪を唱えると、炎が女の姿の狐を取り巻き、結界を形作った。

                  「やりおるわ。」

                  女は顔に貼りついた護符をはがし、にやりと笑った。

                  「朝までそうしておられませ。」

                  晴明は言い捨て、車に乗り込んだ。

                  いつのまに現れたのか、今度は灰色の水干を着けた老人が牛を引き、車はごとりと動き出す。

                  「何とも小気味よいことよ。ますます、そなたが欲しうなったわ。」

                  護符を握り潰した。白い指の間から、ぶすぶすと煙が立ちのぼる。

                  「わらわはあきらめぬぞ、晴明。待っておるがよい。きっとそなたをわらわの側に引きずり込んでやるからの。」

                  女の不気味な声を置き去りに、車は存外ゆっくりと、だが、確実にその場を離れていった。

 

               続く


               思いっきりB級アクションで、申し訳ありましぇん。

                  時代的にはかなりズレますが、一応、九尾の狐を意識してます。

                  九尾の狐の正体を暴いたのは、晴明の孫の安倍泰親なので、まあ、ご縁がないワケでもない、ということで。

                  次回以降、博雅の出番もちゃんとありますので、ご心配なく〜。     

 

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