『続教訓抄』第十一

 

               基通※1が言うことには、故三宮※2が仰られたことには、式部卿宮※3は、博雅三位に意趣があった
              ので、これを屋敷で斬ってしまおうと、勇徒ら数十人を密かに差し向けた。三位は寝殿の西の妻戸の内の
              格子を一間(約1.8m)ばかり開けて、有明の月が西の山にかかるのを眺めて、大篳篥※4を吹き澄まして
              いた。勇徒らは、これを聴くと不覚にも涙を落としてしまった。各々涙を流して、これを斬ることができ
              ず、帰参した。宮が待っていて、(何故博雅を斬らなかったかと)問うたならば、具にその由を申し上げ
              た。宮はこれをお聴きになって、同じく涙を流して意趣を思いとどまった。
              


               優れた音楽家が「音楽の力で殺人を思いとどまらせた」というのは、伝説としては割と定番(発展形に
              なると、戦争を止めさせてしまったりする)ですね。ただ、式部卿宮の博雅に対する「意趣」について、
              どうにも同人誌的妄想が広がってしまうわけなのですが。獏先生も指摘されてますけど、博雅の態度は自
              分が命を狙われているとは夢にも思ってないのがありありだったりするので、余計。

               で、実は私も、式部卿宮が博雅に抱いた「意趣」を同人誌的に解釈した二次小説を書こうとしたのです
              が、その過程で式部卿宮=敦実親王についていろいろ調べているうちに、敦実親王に関する史実から浮か
              ぶ親王のイメージが、どうにも所謂「腐女子的妄想」(例えば博雅に懸想した挙句、可愛さ余って憎さ百
              倍で命を狙う・・・って、こう書くとミもフタもないな)にそぐわないんですよね。博雅の楽の才が我が
              子より優れていたから焦って、というのも不自然。だって、敦実親王の二子、源雅信、重信の兄弟の方が
              博雅より断然出世しているではないですか。

               それに、そもそも刺客を数十人放って実力行使、というのも全く平安貴族らしくないです。平安貴族な
              ら、憎い相手は呪詛だろう、とか、ライバルを政治的に葬ってしまうことはあるが、命を奪うなんてこと
              はまずやらない(平安時代には死刑がなかったってのは割と有名な話)のが平安貴族のポリシーだ、とか
              思うと、この話は相当胡散臭くなってきてしまいます。

               憎い相手に大勢の討手を差し向ける、というのは、武士の発想、というか、非常に中世的な感覚ですよ
              ね。他の博雅説話と違い、この話の類話が他には見られないことを考えると、やはり、『続教訓抄』が成
              立した鎌倉時代になってから作られた話だと見てもよいのではないでしょうか。

               敦実親王の子孫は、この後も宇多源氏として大いに栄え、平安末期までには近江に移住して佐々木氏を
              称するようになります。佐々木氏は、源平争乱期には源氏方について大いに功績があり、鎌倉時代には
              有力御家人の一つでした。南北朝期に「ばさら大名」として知られた佐々木道誉なども宇多源氏の系列に
              なります。

               ・・・というわけで、この逸話は、宇多源氏に何らかの意趣があった人々が、宇多源氏が祖先としてこ
              よなく崇拝する敦実親王(親王を祭った沙沙貴神社、なんてものもある)を貶めるために、当時既に「楽
              の仙」として人気の高かった博雅をダシにしてでっち上げたんではないか、というのが、私の勝手な推測
              なんですが、どうでしょう。

              ※1 藤原(近衛)基通のことを指すか。近衛基通(1160〜1233)は、源平争乱期に摂関の地位にあった
              人物です。後白河院に近い立場にあった人で、鎌倉方とは反りが合わなかったらしい。

              ※2 「基通」が近衛基通のこととすると、同時代で三宮と呼ばれた人物は高倉天皇第三子にあたる惟明
              親王(1179〜1221)でしょうか。平氏が安徳天皇を担いで都落ちした後、代わりの天皇の候補でしたが、
              籤引きで外れてしまったという逸話があり、歌人として知られています。

              ※3 宇多天皇第八皇子。893〜967。一品式部卿、一条宮、八条宮。楽の名手で、「源家の音楽の元祖」
              (『郢曲相承次第』)と称される。天暦四年(950)には出家して、宇多院が建てた仁和寺に入り、仁和寺宮
              と号す。

               博雅とは父方の大叔父に当たる一方、その妻は博雅の母と姉妹で、共に藤原時平の女。博雅の和琴の師。
              政治的、社会的にも博雅と同じ派閥に属する人物で、この点から見ても、敦実親王が博雅殺害を企てると
              いうのは不自然。おそらく、我が子雅信、重信を並んで、源氏の若手ホープとして期待をかけていた、と
              見るのが自然ではないでしょうか。博雅の楽の才に脅威を覚えて、というのも、むしろ、政治的に成功し
              た我が子に対して、源家の楽の継承者として大いに期待していたという方がありそう。

               先に引いた『古今著聞集』巻244の記事の後半は、博雅の子信義の笛の素晴らしさに敦実親王が感激
              して、「これこそは双調の君だ」と褒め称えた、という内容になっています。この逸話からは、敦実親王
              の博雅(とその子信義)に寄せる親愛と信頼は読み取れても、敵意とか妬み、増してや殺したい程の複雑
              な愛憎など皆無と言ってよいでしょう。

               正直、私自身も含めて、敦実親王に対する「腐女子的妄想」というのは、宮にとっては冤罪もいいとこ、
              余りにも気の毒ではないかしら・・・というのが今思うところ。まあ、野暮って言えば野暮なんですけど。

              ※4 『続教訓抄』が書かれた時代には、もう失われた楽器になっています。篳篥は小さな楽器なので、
              単純にそれより大きめの縦笛ってとこなのでしょうか。

           


           『続教訓抄』は、1270年から1322年の間に成立した雅楽の口伝書(楽書)で、撰者は狛朝葛
              (1249〜1333)。楽器や楽譜の解説のほか、楽に纏わる説話も多く収めています。

 

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