序―『大和物語』九段
桃園の兵部卿宮※1(醍醐天皇第一皇子克明親王)がお亡くなりになって、一周忌の御仏事を陰暦九月の末になさっ
た時に、としこ(藤原千兼の妻)が、その宮の北の方(藤原時平女)にこのような歌を奉った。
おほかたの秋のはてだに悲しきに今日はいかでか君くらすらむ
(普通でも秋の終りというのは悲しいのに、宮さまの命日である今日をどのようにあなたはお過ごしでしょうか)
北の方は、限りなく悲しいと思って泣いていらっしゃったところに、このように言ってこられたので、
あらばこそはじめもはてもおもほえめ今日にもあはで消えにしものを
(夫が生きているからこそ、秋の始めも終りも思われるのでしょう。今日のこの日を待たずに亡くなってしまったので
す。)
とお返事をなさったという。※2
25才の若さで亡くなった親王の、周囲の人々の悲しみがよく伝わって来る逸話です。
父を失った時の博雅はわずか10才(922年誕生説だと6才)。ここから浮かぶ幼い博雅のイメージは、泣いてばかりい
る母を自分が支えねば、と思いつめる健気な姿。大人になってもあの性格ですので、幼い時分には、さぞ健気に振舞って
いただろう、と思うとほろほろします。(ちなみに、以前博雅は一人っ子と書きましたが、のちほど実は4人兄妹であったこ
とが判明致しました・・・。)
※1 父宮の呼び名の「桃園の兵部卿宮」、これが住んでいる屋敷の地名を指すものだとすれば、恐らくは「桃薗の柱の
穴より稚児の手の招くこと」の桃薗と同一の地でしょう。コミックによると、「貴族の別荘地」ということなので、親王の屋敷
があっても特に不思議はないはず。源高明は、克明親王の弟に当たる人物ですしね。
とすると、その子である博雅も、この地に住んでいた可能性も大。ところが、コミックでは博雅は「なんでまた都の艮の桃
薗なんぞに」などと口走っています。晴明としては、伯父さんがどーの、とか言う前に、「おまえも住んでいるではないか」と
突っ込むべきところなワケですね。でも、そうしたら、博雅は晴明んちに行くのに戻り橋は渡らないことになるなー。
※2 悲しみの中にあっても、このようにさらさらと歌を詠むことの出来る人の息子が、「歌がわからない」ってことはない
と思うんですが。(^_^;)
『大和物語』は、『陰陽師』の舞台とほぼ同時代の、天暦五年(951)成立と見られる歌物語です。歌物語としては『伊
勢物語』の陰に隠れてやや陰が薄いと言われてます。後半の民間伝承を集めた部分の方が有名ですが、今回引いたの
は、前半の、宇多院とその周辺の人々にまつわる逸話を歌と共に集めた部分から。ままならぬ人生を嘆いたものが中心
だそうです。しんみり。