安倍晴明



史実
921〜1005。平安時代の陰陽家。父は安倍益材、母は某女。
 960年、40才で天文得業生として名前が史料に登場、以後天文博士(正七位下)、主計権助(正六位下)などを歴任、
 1001年、80才で従四位下に敍せられ、1002年大膳大夫、1004年左京権大夫。安部家が賀茂家と共に陰陽頭を
独占するようになったのは、息子の代以降のことになります。
伝説

 土御門流陰陽道の祖とされ、陰陽家として名を知られるようになったのは、『大鏡』に見える花山天皇の退位を予言した
記事からでないかと思われます。そして、『今昔物語集』を始めとした、平安末から鎌倉時代にかけて成立した説話で、特
異な能力を持った人物として描かれるようになり、長編『生成り姫』のもととなった「鉄輪」など、中世の謡曲で悪霊退治の
ヒーローとしての安倍晴明像が確立されたものと見られます。母が信田の森の白狐である、という伝説もこの時点で成立
したもの。

 近世に入ると、特に江戸時代に戯作や浄瑠璃、歌舞伎で晴明をヒーローとして取り上げるものが多く現れ、ちょっとした
安倍晴明ブームの様相を呈していたようです。ライバルとしての蘆屋道満像の確立も、この時代でしょうか。

 かくして晴明伝説は日本各地に流布し、異能のヒーロー安倍晴明像は、長く語り継がれていきます。平成の安倍晴明ブ
ームにおいては、「平安最強の陰陽師」てなキャッチフレーズまで奉られてしまったわけで。

 このような晴明伝説の背景について、専門家は、中世以降、土御門流陰陽道が各地に布教を行なうに当たって、始祖で
ある安倍晴明をことさらに祭り上げて語り歩いた結果であろうと推測します。まあ、そんなことを言ってしまうとミもフタもない
ですが、しかし、やはりこれだけ根強く晴明伝説が流布されたのは、安倍晴明という人物に民衆の心を捉えるものがあった
からではないでしょうか。「晴明」という名前そのものにも、字面からして何やらめでたくてありがたいものがあるような気が
したりして。

 江戸と平成の安倍晴明ブームの背景とか、それぞれの時代における晴明像(江戸時代のは割りとマッチョな武者ぶりだ
ったようで)の違いについて考えてみるのも面白いかもしれません。
『陰陽師』

 ただ、史実の晴明は、40才過ぎるまでは陰陽寮の特待生扱い、従四位下に敍せられた時にはすでに80才と、れっきと
したやんごとないお血筋で、16才ですでに従四位下に敍せられていた博雅とは、口をきくどころか、目も合わせてもらえな
かったであろうことは確かで。

 まあ、『陰陽師』の世界は史実と虚構の皮膜の間に浮かんでいるのであって、こんなことを目くじら立てて言いたてるの
は愚の骨頂と申せましょう。現代の読者である私たちは、物語の世界のほのぼのとした晴明と博雅を楽しめばよいのです
よ。

 作中、晴明は殆ど感情を露わにすることなく、映画版のイメージも手伝って、多少人間不信の入ったクールなキャラで、
博雅以外には決して心を許さない、というのが定着しているようです。だが、物語の行間からは、博雅に対する想いばかり
でなく、弱い立場にある人々への愛情深い視線というのを感じ取れるような気がします。確かに、「博雅がいなかったら道
満のようになっていた」であろう晴明ですが、博雅を得た晴明って、結構人情家なのではないかな、と個人的には思います。
割とラジカルな思想の持ち主って気もするし。(・・・だからって、某ドラマ版のようなのは勘弁だが)・・・ちなみに、道満と晴
明は「同じ」かもしれんが、道尊と晴明は同じじゃないと思うぞ。



「陰陽な人々」トップへ  目次へ