紅葉の候は、そろそろ盛りを過ぎようとしていた。

 日に日に冷たさを増す風にはらはらと落ち葉が舞い落ちる様は、何かと物思わしげな季節に、一層物思う気持ちをかきたてる。

 そんなある日の昼下がり、晴明を訪ねた博雅は、簀子に座して、ななめになった秋の陽にせわしなく葉が落ちるのをぼんやりと眺めていた。

 が、そのうちふと口を開いた。

 「なあ、晴明」

 「ん?」

 柱にもたれ、立てた片膝に手を置いて、秋枯れの庭の景色を背景に、博雅を眺めていた晴明は、少し柱から頭を離した。

 「いつも、この季節になると、そうしてこのように木が葉を落としてゆく様を見ていると、命とは何と儚いものだ、時が移ろうというのは何とも物悲しいものであるな、としみじみ思うておったのだが」

 「うむ」

 「今年はどういうわけか少し違った心持ちがするのだよ」

 「ほう」

 「こうして葉を落とした木はじっと冬を越し、まだ春にもなりきらぬうちから新しい芽を出す。春から夏にかけては目に沁みるような眩しい若葉だ。梅雨の候ともなれば勢いよく生い茂り、そして、秋には美しく色づくのだ。」

 博雅はほうっと息を吐いた。

 「木々が秋の終わりにこのように葉を落とすのは、また次の年に新しい葉を茂らせ、艶やかに色づくために備えておるのだ、と思えば何と命とは豊かで尊いものだと思え、何とも心が明るくなってくるのだよ。」

 「そうか」

 晴明は優しくうなずいた。博雅は晴明に体ごと向き直って、

 「恐らくおれがこんな心持ちになったのは、先日源等どのの北の方にお目にかかったせいだと思うのだ。」

 「ほう」

 晴明は何かと思い出すような目つきになった。

 「楓の御方にお会いしたのか」

 「うむ」

 博雅はうなずいた。

 「和子はお元気であったか」

 「それはそれは健やかにお育ちだ」

 「あれから1年たつかな」

 「昨日でちょうど1年だそうだよ。」

 源等は博雅の遠縁にあたり、その北の方は嵯峨野にある楓の林に囲まれた屋敷に暮らしている。秋になるとその楓がそれはそれは美しく色づくと評判であったため、楓の君、楓の方などと呼ばれていたのである。

 その楓の方が身籠って、そろそろ出産も間近という頃、何やら物の怪にとり憑かれたらしいと、等が博雅を介して晴明に助けを求めたのが、かれこれ1年と少し前のことであった。

 紅葉が今や盛りの嵯峨野の屋敷を、博雅と共に訪れた晴明は、楓の方の様子をひと目見て眉をひそめた。

 別室に夫の等を呼び、博雅だけを残して人払いをすると、

 「お方さまには何やら強力な生霊がとり憑いております。」

 と告げた。

 「生霊?」

 「はい」

 晴明は筆と紙を所望してすらすらと何かしたためた。

 「この歌に覚えがおありですか?」

 受け取って一読した等の顔がさっと蒼ざめた。

 書かれていたのは、歌であった。



   袖ぬるるこひぢとかつは知りながらおりたつ田子のみづからぞ憂き※

   ―袖が濡れる泥(こひぢ)とは知りながら田の水に降り立ってしまうように、恋の道に踏み入ってしまう我が身が情けない。



 「こ、これは一体・・・」

 「お方さまの枕もとに座しておりました女の鬼が、この歌をつぶやいておりました。」

 むろん、晴明以外の者には見えていない。

 「何と・・・」

 等はうなだれた。

 「これは、かつて私の通っておったさる高貴なお方が、その後私が疎遠になったのを恨んで送ってきたものだ。」

 「そのお方は今いずこにおられるのですか?」

 晴明が問うと、

 「娘御が伊勢の斎宮に任じられ、今はこれに付き添われて伊勢に下っておられる・・・」

 答えてしまってから、等ははっとして口をおさえた。娘が伊勢の斎宮であると言えば、その母が誰であるかは容易に察せられてしまう。それも、皇統につながるお方だ。

 が、晴明はさして気に留める様子もなく、博雅は事情を知っているようで、一層沈痛な面持ちになった。

 「そのお方が等さまの北の方ご懐妊と伝え聞き、古いお恨み忘れ難く、やむにやまれずこのような仕儀となったのでしょう。」

 「何ということだ・・・」

 等は頭を抱えた。

 「いったん情けを通じた女の方を無闇に粗略に扱うてはならぬ、ということですな。しかも、やんごとないお方をなれば、誇りを傷つけられたと恨みも深まろうというもの」

 晴明は素っ気無く言い、

 「とは言え、こちらのお方さまや生まれてくる和子には何の罪とがもなきこと、何とかお二人ともお救いできますよう手を尽くしてみましょう。」

 「す、すまぬ」

 等は身分が下の晴明に丁寧に手をついて頭を下げた。



 晴明は楓の方の寝所に祭壇をしつらえ、その前に座して呪を唱えた。

 すると、ややあって、苦しそうにしていた楓の方の表情がすうっと安らいだ。

 晴明はいったんそこで呪を止め、楓の方の額に指をかざした。

 それから等と博雅に向き直り、

 「物の怪はいったんは去りました。ですが、当分はこの辺りをさすらって再びお方さまにとり憑く折りを窺っておりましょう。」

 「どうすればよいのだ?」

 「これより和子がお生まれになるまでの間、わたくしがここで呪法を行い、物の怪が寄らぬようにいたしましょう。」

 「た、頼む」

 等は、かの女人の生霊がまだその辺りにいるのでは、とおどおどしながらうなずいた。

 晴明が呪法を行っている間、博雅は引き揚げてもよかったのだが、そう口にした途端、晴明は思い切り面白くない顔をするし、等は半泣きになりながら、心細くてならないからそばについていてくれと頼むので、結局そのまま屋敷に逗留することになった。

 庭に降り立つと、評判の楓林が鮮やかに色づいていて、息を呑むような艶やかな眺めである。

 燃え立つように紅い枝々の下をそぞろ歩きながら、博雅は興に誘われるまま葉二を取り出して唇に当てた。

 秋の陽光のきらめきの中に流れ出してゆく音色の清らかさに、己れの華やかさを誇示しているかのような楓たちも思わず聴き惚れているかのようであった。

 ふと、何かの気配を感じた博雅は、笛を奏でながら視線をめぐらせた。

 紅葉の隧道の奥に、薄く佇む影があった。

 目を凝らすと、影は朽葉の袿を纏った女人の姿となった。

 博雅は思わず唇を笛から離した。それは博雅の知っている女人であった。

 「東洞院の御息所さま・・・」

 女人の実体がこの場にないことは、女の白い肌に背後の紅葉の色が透けて見えることでわかった。

 「中将どの」

 その声も何やらこの世のものではないような響きを含んでいる。

 「笛をお続けなさい。」

 いまにも気位高く、命ずるような口調で言うのに、博雅はうなずいて笛を続けた。

 女人は夭逝した先の帝、朱雀天皇の女御であった。

 自らも皇統に連なる身で、博雅とも血縁である。

 一人あった女宮が伊勢の斎宮に任じられたので、これに付き添って今は伊勢に下っていると聞いている。

 伊勢にいるはずの女が、嵯峨野で博雅の笛に耳を傾けている。

 伏せた目からすうっと涙がこぼれた。

 一曲が終わると、御息所は目を開けた。美しい顔には笑みこそなかったが、先ほどよりは穏やかであった。

 「ありがとう。中将どののお笛は久しぶりですが、相変わらずよいお笛ですね。」

 博雅は黙って一礼したが、頭を上げると思い切って口を開いた。

 「御息所さま」

 「何です。」

 「伊勢におられるはずの御身が、なにゆえこの地にあるか、存じ上げておるつもりです。」

 「・・・。」

 「このように他のお方を呪うようなことをなさると、いずれ、御身や斎宮の宮さまに災いとなって返ってくることとなりましょう。・・・どうかおやめ下さい。」

 御息所はふうっと悲しげな顔になった。

 「わかっております。わかっておるどころか、このような真似をするわが身がたまらなく浅ましいのです。」

 「ならば・・・」

 言い募ろうとする博雅を、御息所はかぶりを振って遮った。

 「中将どののような方にはおわかりになりますまいよ。人を恨む余り覚えず魂が現し身を脱け出してしまう、などということは・・・」

 わかる。

 そういう女人を見たことがある。

 その人は救えなかったが、今度は・・・。

 博雅が溢れてくる想いに手をつけかねて口を開けずにいる間に、御息所は博雅に背を向けた。

 「御息所さま!」

 博雅は呼んだが、女の影はそのまますうっと紅葉を透かしてきらめく陽射しの中に溶け込むように消えてしまった。

 呆然とする博雅の肩に背後から手を置く者があった。

 振り返ると、

 「晴明・・・」

 晴明が労わるようなまなざしでじっと見ていた。博雅は口ごもりながら、

 「楓の御方も、お腹のお子も、それにあのお方も、みなお救いすることはできぬのだろうか?」

 晴明は肯定も否定もせず、女の影が消え去った方へ目を向けた。

 「・・・それはあのお方次第であろうな。」



 それから数日の間は、何事もなく過ぎた。

 晴明は、等に出産の時が最も危ないであろうと告げた。

 「ただでさえ、お産の折りには物の怪がとり憑きやすいものですからな。」

 等は深刻な顔でうなずいた。

 そして、庭の紅葉もそろそろ盛りを過ぎようかというある日、突然楓の方が苦しみ始めた。

 晴明が祭壇に向かって呪法を行う傍らで、等はおろおろと苦しむ妻を労わろうと覗き込んだ。

 「おまえ、しっかりおし。」

 すると、楓の方はふっと顔を上げ、奇妙な表情で夫を見上げた。

 「あなた」

 その顔は、別の女の顔であった。

 「苦しくてなりませんので、あの陰陽師の呪法を止めさせて頂きたいのです。」

 「み、御息所さま・・・」

 等は思わず後ずさった。

 女はすうっと半身を起こして晴明を見た。

 しばし女と目を合わせた晴明は、何故か呪を唱えるのを止めた。

 「な、なぜ止めるのだ。」

 等が驚いて詰め寄るのを制して、晴明は女に声をかけた。

 「何かおっしゃりたいことがおありのようですが」

 女はうなずいた。その顔に浮かぶのは、怒りでも憎しみでもなかった。深く澄んだ悲しみの表情であった。

 「そなた、安倍晴明じゃな」

 「はい」

 「わらわは、もうこのような浅ましき真似はしたくないのじゃ」

 晴明は黙ってうなずいた。

 「先ごろ、中将どののお笛を聴いており、甲斐なき恨みに身を焼く我が身の浅ましさ、わらわより他に頼るものとてない姫宮への愛おしさが増して、こんなことは止めてしまいたいと思い続けておった。しかし」

 女は辛そうに首を振った。

 「いかにしてもやまぬのじゃ。そこな殿方への想いは何としても断ち難く、このおなごと腹の子への憎しみは抑え難く、伊勢にある現し身に戻ることもかなわぬ。」

 そしてすがるような目で晴明を見た。

 「わらわを救ってたもれ、晴明。わらわの憎しみの炎を浄化してほしいのじゃ」

 晴明は優しい目になって、

 「いかにすればあなたをお救いすることができるのですかな。」

 「おお、救うてくれると言うのか。」

 女はうなだれると、途切れ途切れに言った。

 「中将どの・・・博雅どののお笛を・・・」

 晴明はうなずいた。そして几帳の向こう側に控えていた博雅に声をかけた。

 「博雅、こちらへ」

 様子は聞き取れていたらしい博雅は、少し赤い顔をして入ってきた。

 控えめに離れたところに座し、晴明と目顔を合わせると、うなずいて懐から葉二を取り出した。

 「頼みます。」

 女はじっと頭を下げたまま言った。

 博雅は葉二を唇に当て、ふうっと息を吹き込んだ。

 心に深く染み入るような音色が寝所を満たしてゆく。

 うなだれていた女は、やがてすすり泣きを始めた。

 一曲を吹き終わろうかとする頃、不意に女が顔を上げた。

 しばらく宙の一点を見つめていたかと思うと、すうっと目を閉じ、ゆっくりと褥に崩れ折れた。

 等が慌てて傍に寄り、抱き起こすと、安らかな寝息を立てている顔は、楓の方であった。

 「せ、晴明」

 等の呼びかけに、晴明も傍に寄って、脈を診たりなどしていたが、

 「もう大丈夫でしょう。」

 「そうか・・・有難い」

 等はほっと安堵の息をついた。

 「行ってしまわれたのだな。」

 博雅はつぶやいて、笛を懐に収めた。

 そしてその夜、楓の方は産気づき、さして大きな障りもなく、愛らしい女の赤子を産んだのであった。



 それがちょうど一年前のことであった。

 「もう立ってよちよちと歩き始めておられた。あのような騒ぎの中で生まれたとは信じられぬほど、健やかで丸々とした美しい赤子であったよ。」

 愛くるしい赤子の様子を思い出して、博雅は優しげな表情で目を細めた。

 「そこで思うたのだよ。我らは一年前のことなどつい最近のことであるかのように思うてしまうが、幼子にとっては生まれたばかりで寝てばかりいたのが、這うようになり、立って歩くようになる。」

 愛情深い口調で言った。

 「それだけ一年という年月は大切なものであるのだなあ、と感じたのだよ。」

 「なるほどな」

 晴明はうなずき、盃を口に含んだ。博雅はそこで少し口調を改めた。

 「それからなあ、晴明」

 「何だ」

 「先日、伊勢から文が届いたのだ。」

 「伊勢?では・・・」

 「うむ、東洞院の御息所さまがおれに文を下さったのだよ。一年前のことでは、今でも辛い想いをすることがあるが、とにかく斎宮の宮さまのためにも、もう古い恨みには捕らわれずに生きてゆきたい、ということであった。」

 「ふうん」

 「お前にもくれぐれも礼を言うてくれ、とのことであった。」

 「そうか」

 晴明は軽くうなずいた。

 博雅は西日の差しはじめた庭を見ながら、

 「なあ、晴明」

 「何だ」

 「かの御息所さまが鬼と化してしまわれなかったのは何故なのだろうなあ。」

 「おまえのおかげだろう。」

 「おれなど、大したことはしておらん。」

 博雅はかぶりを振った。

 「やはり、斎宮の宮さまがおられたからではないかと思うのだよ。」

 「そうかもしれぬな。」

 晴明は軽く目を伏せ、頭を柱にもたせかけた。

 「人というものは、頼り頼られるものがあれば、それだけで生きてゆこうという気持ちが湧くものだ。それは、例えば一匹の犬でも構わぬのだよ。ましてや、御息所さまには、母ぎみの他は頼る人とてない、年若い姫宮がおられるのだからな。」

 「そうだろうな。」

 博雅はうなずいた。

 そして、また何やら想いに耽っていたが、ふと晴明の方を見た。

 「晴明」

 「何だ」

 「おまえには、その、そのように頼り頼られ、生きてゆく支えとなっておる者がおるのか?」

 「・・・。」

 晴明は頭を起こし、まじまじと博雅の澄んだ瞳を見返した。

 一瞬、わかりきった答えを敢えて言わせるため、わざとそんな問いを発したのかと思った。

 しかし、博雅のまなざしには、心底友を案じ、思いやる心情以外何もうかがえないので、再び頭を柱に預け、わざと投げやりな口調で言った。

 「おまえがいるではないか。」

 「・・・。」

 まんざら期待していなかったわけでもなかったらしく、博雅は赤くなってふいと目をそらした。そうして、ややあってから、

 「・・・おれも、おまえがいる、と言ってもよいだろうか、晴明」

 晴明は微笑した。今度は優しく答えた。

 「当たり前であろう。」

 「うむ」

 博雅は目をそらしたまま、それでもうれしそうにうなずいた。

 やがて夕暮れが訪れようとしていた。

(了)


 うーん、最初はもっとコンパクトな話になるはずだったんだけど、どんどん話が暴走していってしまって、貰ったお題「一年」は申し訳程度しか入ってないです。こんなんでよかったら上げるね。一周年おめでとうねっ。

 ちなみに、朱雀天皇には「東洞院御息所」と呼ばれたお妃はおりません。楊某の完全なフィクションです。博雅のいとこ(保明親王女)に当たる女性で、姫宮(冷泉天皇皇后)を生んでいる王女御というひとはいるんですけど。

 元ネタはもちろん『源氏物語』の「葵」です。源氏ファンの方、笑って見逃して下さい・・・。『源氏』は、六条御息所が洗っても洗っても髪から祈祷の護摩の匂いが抜けないって件りがすっごく怖かったです。紫式部ってやっぱ天才。

 (註)

※和歌は、『源氏物語』巻九「葵」から拝借致しました。(^_^;)六条御息所が源氏が疎遠になったのを恨んで贈ったもの。歌は、「こひぢ」(泥)と「恋路」、「みづ(水)から」と「自ら」が掛詞になっています。



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