波声
どこまでも澄んだ秋晴れの空で、一羽の鳶が弧を描いている。
凪いだ海は深い色を湛え、漣が穏やかに砂浜に打ち寄せる。
絶え間なく押し寄せる波の音とやわらかく絡み合うように、透明な龍笛の音が響いていた。
浜辺の岩の一つに、二藍の直衣姿の公達が腰を下ろして、笛を吹いている。
波の音に誘われるままに奏でる調べ―いや、笛の音に誘われて、漣が声をたてているのやもしれぬ―に、 海も空も、高く舞う鳶さえも、聴き入っているかのようであった。
笛の吹き手に寄り添うようにして座る白い狩衣姿の男もまた、己れを周りの事物と一体化したかのように目を伏せ、妙なる調べに身をまかせていた。
笛が一曲を奏で終わるのを待っていたかのように、声をかける者があった。
「晴明さま、博雅さま」
女の声だ。見ると、尼姿の若い女が浜辺の砂の上に立っていた。
「これは―」
「白比丘尼どの」
晴明と博雅はその場から腰を上げた。
「お久しぶりでございます。」
人魚の肉を食べ、不老長寿の身となった白比丘尼は丁寧に頭を下げた。
「それは美しいお笛の音がいたしましたので、思わず引き寄せられて参りましたの。」
優しい目で博雅の手の中の笛を見た。
「よもやと思ったのですが、やはり博雅さまのお笛でしたのね。」
「なにゆえ、比丘尼どのがかような所に―」
いぶかしむ博雅に、晴明が説明した。
「この若狭国は比丘尼どのの生まれ故郷なのだよ、博雅」
比丘尼はうなずいて、
「もう誰も知り人とておりませぬが」
寂しげに微笑んだ。
「親しくしていた者たちの墓はござりますゆえ、時折こうして訪れるのでございます。」
「そうでしたか」
「お二人こそ、なぜ、この小浜の地へ?」
晴明が博雅の方をちらり、と見た。博雅は屈託のない調子で、
「実は、この夏、少々熱の病を患いましてなあ。この辺りは我が家領なので、しばらく前より養生に参っておるのですよ。」
「そうでしたの」
比丘尼は、ひどく気がかりそうに博雅を見たが、それ以上は何も言わなかった。
「冷えてきたようだ。」
日が翳るにつれ、風が冷たくなってきたのを感じ、晴明は博雅に声をかけた。
「体に障る。戻ろう。」
博雅はこっくりして、葉二を懐に入れた。
「俺は里に寄る用事があるが、一人で戻れるか?」
晴明が言うと、博雅は苦笑した。
「童ではないのだぞ。それに、すぐ裏の丘ではないか。」
そして、比丘尼に言った。
「このように、都から離れた地でも、晴明の名を聞いて、相談事を持ち込む者があるのですよ。悪事千里を走る、とはこのことですな。」
「博雅」
今度は晴明が苦笑した。
浜から少し丘を上がったところにある、源家の別邸に戻る博雅と別れ、晴明と比丘尼は里へ向かう道を辿っていった。
「博雅さまは、お顔の色がたいそうすぐれないご様子でしたが。ずいぶんとお痩せになったようですし。」
言いながら比丘尼が晴明の方を見やると、その美しい横顔は、はっとするほど厳しい表情を浮かべていた。
「あれでもよくなった方なのですよ。このように、外に出かけることはおろか、笛を吹くことすら思いもよらなかった時さえあったのですから。」
「まあ」
比丘尼は口元に手をやった。晴明は不自然なほど平たい声で言った。
「この夏、たちの悪い夏風邪をこじらせたのがもとで、重い熱の病を患いましてなあ。いっときは生死の境をさまよって、もう助からぬかと―」
声が心持ち震えてきたのに気づいた晴明は口をつぐんだ。比丘尼はいたわるように、
「でも、持ちこたえられましたのね。」
晴明はうなずいた。
「何とか熱は下がりましたが、すっかり体が弱ってしまって、その後の快復がはかばかしくないので、博雅の乳母どのの勧めで文月(旧暦七月)の半ば頃より、わたくしが付き添って、この地で養生させておるのです。」
「そうでしたの」
「冬が来る前には都へ戻らねばなりませぬゆえ、何とかあそこまで快復してくれて、安堵いたしております。また、あの笛が聴けるようになってよかった」
すっと顔を比丘尼から背けるようにしたのは、涙ぐんでいるのを隠すためであろうか。
その後は二人とも押し黙ってしまった。
―この方は、本当に博雅さまのことを大切に思われているのだ。
比丘尼が久しく感じていなかった驚きの感情に見舞われていた。
―もし、本当に博雅さまに先立たれてしまったら、この方はどうなってしまわれるのであろう。
そう思った瞬間、一つの絵が比丘尼の脳裏に浮かんだ。
「あ!」
思わず口をおさえて立ち止まった。
「どうなされました?」
晴明も足を止め、不審げに見やった。
比丘尼は軽く息をして、
「用事を思い出しました。ここで失礼いたしますわ。」
慌しく別れを告げ、足早にその場を立ち去った。
そして、一人、誰もいない浜辺に降り立った。
もう、日は西にかかり、海は藍色の薄明の中でたゆたっている。
―あの方は、博雅さまに先立たれてしまうのだ。
比丘尼は、砂の上に立ち、己れが予知した未来の姿を思い起こした。
鳥辺野に立つひとすじの煙。それを見上げて立ち尽くす一人の男。
―それから、晴明さまは20年余り生き永らえる。
しかも、かの藤原兼家の生んだ「欠けることのなき望月」の後ろ盾を得、はたから見れば、わが世の春を謳歌しているようにさえ、見えるであろう。
しかし、その心は死んだも同然。
「何とつらきこと」
比丘尼は、その場にうずくまって静かに涙を流した。人のためにも、己れのためにも、久しく流したことのない涙であった。
そんなことがあってから、何日かが過ぎた。
近く晴明と博雅が都に戻ると聞き、白比丘尼は別邸を訪ねた。
夕暮れ時、都の晴明の屋敷でそうしているように、二人は簀子で向かい合っていた。さすがに酒は控えているらしい。
普段、別邸を管理している者には手当てを渡して里へ帰らせ、こまごましたことは晴明の式が取り仕切っているので、比丘尼も気兼ねなく二人と語り合うことができた。
博雅は先に会った時と比べて、かなり顔色もよいようであった。
「いま少しここで養生させたいのですが、あの男よりたっての催促がありましてな。月見の宴に博雅の楽がないのは寂しいとか何とか」
晴明は渋い顔だ。例によって、主上(おかみ)をあの男などと呼ぶものではない、と博雅にたしなめられる。
「わたくしもここで聞く波の音がすっかり気に入ってしまったので、都へ帰っても、しばらくはここの暮らしが恋しくなりましょうな。」
博雅は少し寂しそうな顔であった。
別れ際、比丘尼は晴明だけにそっとささやいた。
「博雅さまを大切になされませ。」
晴明は訝しげな顔になったが、
「はい」
とうなずいた。
生くとし生けるものは、みな、いつかは滅びる。
滅びるから空しいとも言えるし、
滅びるからこそ美しいとも言える。
しかし、この二人の絆は、やがて滅びる時を迎えるその日まで、美しくあり続けてほしい。
博雅が好きだと言った、若狭の岸に打ち寄せる波の音を聞きながら、比丘尼は思っていた。
結
初短編、初非B級アクションと初物尽くしですが、少々玉砕ぎみでございます。^^;
つーか、何か映画っぽいですね。白比丘尼(やっぱり晴博応援団・・・)さま、思いっきり青音さま入ってるし。
ちなみに舞台にした若狭国小浜は現在の福井県小浜市。コミックに登場した鵜の瀬があるところです。ほんとは、貴族の別荘って、嵯峨野とか宇治とか、都の近所にあるもので、こんな遠い所にあったとはとても思えんのですが(^^;)、(でも『源氏物語』で光源氏が隠棲する須磨よりは都に近いんだけど)まあ、目をつぶってやって下さいまし。冒頭の海辺で笛を吹く博雅、が書きたかっただけなんで。あ、でも、若狭が白比丘尼の故郷というのは丸っきりの嘘じゃありません。コミックにも出てるし、小浜には白比丘尼のモデルになった八百比丘尼のお墓もあります。