月夜のおきゃくさま
空に月がぽっかり浮かんでいる。
若狭の海は、波も静かに夜の底に沈んでいる。
その海を北に見下ろす山の上に、一人の幼い童が琵琶を抱えて立ち、じっと月を見上げていた。
童はふっと溜息をつくと、地面に倒れた木の上に腰をかけ、やおら琵琶を取ってほつほつと爪弾き始めた。
幼いながら、なかなかの腕前である。よい師があったのだろうし、己でも日々精進を怠っていないようだ。
一曲を鳴らし終えると、童は手を止め、月を見上げた。
「殿さまにお会いちたいなあ」
とつぶやいた、その時。
童の背後でざわざわと気配がしたかと思うと、突然、小さなものが幾つも幾つも転がり出てきた。
それは大勢の子狐たちであった。月の光にふわふわした毛が銀色に光っている。
子狐たちは、てんでに辺りを見回しながら、
「また、知らないところに出てちまったよ!」
「ここはどこ?」
「楽の音がちたよね。都のお内裏ではないかちら」
「ちがうみたいだよー」
そのうち、一匹が、なにかぼおっと佇んでいるものに気付いて、
「きゃっ」
と声を上げた。
すると、他の狐たちも一斉に、
「きゃー」
と叫び声を上げた。
訳も判らず、呆然と立ち尽くしていた童は、その声に驚いて、思わず、ぽんと正体を現してしまった。
童は小さな狸の子が化けたものであったのだ。
「あ、狸だ」
「狸さんがいる」
狐たちは恐ろしいものではなく、自分たちと同じ小さなけものの子であったことに安堵して、琵琶を抱えてぺったりと座り込んだ狸の周りを取り囲んだ。
少し体の大きなのが子狸の前に来て、礼儀正しく腰を屈めてから、
「狸さん、ここは一体どこでちゅか?」
と尋ねた。
子狸はすっかり面食らってしまって、どもりながら、
「わ、若狭国の小浜というところでちゅ」
と答えた。
すると、子狐たちは一斉にざわめいた。
「えー」
「わかさ?」
「わかさってどこ?」
「都よりもっと北でちゅよ」
「そんなところに出ちゃったの?」
「わー、大変」
ひとしきり騒いだ後、誰かが、
「でも、さっき楽の音がちたよね」
と言うと、
「ちたちた」
「誰がちいていたのだろう」
口々に言ってから、一斉に子狸を見た。子狸は更に固まった。
また、さっきの子狐が、子狸の前に進み出て、
「さっき、楽の音がちたのですけど、鳴らちていたのは、狸さんでちゅか?」
と問うた。
子狸はうなずいた。すると、子狐たちはわあっと声を上げた。
「ちゅごーい」
「とても上手でちゅね」
「聞かちぇて、聞かちぇて」
子狸はどぎまぎしたが、子狐たちが余りに目をきらきらさせて見るので、とりあえず再び人の子の姿になって、琵琶を構えた。
子狐たちは、わくわくした様子で見守っている。
月の光の中にしっとりと琵琶の音が流れ始めた。
子狐たちは神妙な顔で聴いていたが、何やらむずむずする様子になり、一匹また一匹とどこからか横笛を取り出してきた。
きらめくような琵琶の音に笛の音が一つまた一つと和してゆき、やがて、そこにいた全ての子狐たちが、子狸の琵琶に和して笛を奏でていた。
子狸も楽しくなって、子狐たちの楽しげな笛の音に合わせて何曲も何曲も奏でた。
大層賑やかで楽しげな音色がひとしきり続いた後、撥を置いた子狸は、ぱちぱちと手を叩いた。
「みんな、とても上手でちゅね!」
「狸さんの琵琶もちゅてきよ!」
子狐たちも声を揃えて称えた。
「どなたに教わったのでちゅか?」
「狸さんこそ誰に教わったの?」
そして、彼らは同時に答えた。
「源博雅さま!」
「ええー」
「ほんとにー?」
「博雅さまがここにおられるのでちゅか?」
「ち、違いまちゅ!」
子狸は慌てて首を振った。
小浜にしばらく滞在していた折に、縁があって手ほどきを受けたのだ、と説明した。
すると、子狐たちは、
「私たちは、これから博雅さまにお会いちにいくところなの」
「都へ行こうとちて、間違えてここに来てちまったのでちゅ」
口々に言った。それを聞いて子狸は溜息をついた。
「いいなあ。私も殿さまにお会いちたいなあ」
すると、子狐たちは一斉に飛び上がった。
「狸さんも一緒に都へ行こう!」
「一緒に博雅さまにお会いちよう!」
「博雅さまもきっと喜ぶよ!」
「え?いいんでちゅか?」
「いいよいいよ、さあ」
何時の間にか狸の姿に戻った子狸は、子狐たちに手を引かれ、慌てて琵琶を背に負った。
次の瞬間。
小さなけものたちの姿は、跡形もなく消えうせていた。
簀子でほろほろと酒を呑んでいる。
夏の夜である。
空には満ちた月がかかり、庭には、蛍が一つ二つ、草の間を飛び違っている。
博雅はうっとりとした顔でこれを眺めていたが、ややあって口を開いた。
「なあ、晴明」
と、その瞬間。
庭の方から、突然ぼろんぼろんと幾つもの毛玉のようなものが簀子の上に転がり出てきた。
「な、何だ!?」
博雅は慌てて立ち上がった。
柱の一つに背中を預けていた晴明は、軽く眉を顰めて、柱から背を離したが、座したままである。
毛玉たちはすぐに動き出して口々に騒ぎ始めた。
「今度は上手くいったよ!」
「博雅さまのお屋敷だ!」
「博雅さま!」
博雅の顔がほころんだ。
「おお、おまえたちは」
灯火の明かりにきらきらと金色の毛を輝かしている子狐たちであった。
「いや」
晴明が愛想のない声を出した。
「おまえたちは間違えておるぞ」
わらわらと博雅の足元に群がろうとした子狐たちの動きが、はたと止まった。
「ここは博雅の屋敷ではないぞ。おれの屋敷だ」
ぴきん
と空気が凍りついた。
「おい、晴明、よいではないか」
博雅が取り成そうとした時、
「殿さま!」
狐色の毛玉の群れの中から、一つだけ違う毛色のものが転がり出たかと思うと、ころころと博雅の足元に寄って来た。
「おお、おまえは」
博雅は目を瞠った。
背中に琵琶を負った子狸であった。
「お久し振りでございまちゅ」
子狸は大層お行儀よく挨拶をした。
「何と懐かしい。おい晴明、小浜の子狸の坊が訪ねて来てくれたぞ」
博雅ははしゃいだ声を上げたが、晴明はそっけなく
「よかったな」
と言った。
「あのような遠い地からよく一人で…。おお、子狐たちに連れてきてもろうたか」
「あい」
子狐の一匹が進み出た。
「今夜は間違えて若狭の国に行ってちまったのでちゅ。そこで狸さんと会いまちた。狸さんも博雅さまにお会いしたいと言ったので、一緒に来たのでちゅ」
「やはり、そうか」
博雅はうれしそうにうなずき、子狸の頭を撫でた。子狸はこの上もなく幸せな気持ちになって目を細めた。
「折角みなに訪ねてもろうたのだ。好い月でもあるし、皆で月見の遊びをしようではないか」
博雅は言い、明るい顔を晴明に向けた。
「なあ、よいであろう?晴明」
晴明は興味なさそうに柱に背を預け、目を閉じた。
「好きにしろ」
子狸は心配そうに博雅の耳に口を寄せた。
「あちらの殿さまは、怒っているのでちゅか?」
博雅は笑った。
「そんなことはない。…本当に怒っているのであったら、そもそもおまえたちはこの庭には入ってこれないさ」
それから、晴明を見た。
「そうであろう?晴明」
晴明は答えない。
やがて、庭いっぱいに楽しげな笛や琵琶の音が響き渡り、それは月が低く西に傾くまで続いたのであった。
結
ええと、もうお忘れになっているのではないかと思うのですが(汗)、カウンターを外した際に、華月さまから頂いていてリクエスト、「博雅と子狸と子狐の競演♪」にお答え致しました。華月さま、大変お待たせしてしまって申し訳ありません〜(滝汗汗汗)