鬼遊(おにのあそび)

宮中は、宴の松原の辺りから、夜な夜な笛の音が聴こえてくるようになったのは桜も散り果てた春も晩い候であった。

それだけならば、誰ぞ風雅な人がそぞろ歩いて笛を吹いているのだろう、とさほど気にも留められなかったであろうが、この笛の音には大変に困った点があった。

聴くに耐えぬほどに下手、なのである。

調子っぱずれな上に、矢鱈に甲高い音を出す。

ある夜、堪りかねた大舎人の一人が、笛の音の主に注意をしようと、宴の松原の奥へと入っていった。

笛の音のする方へ近づいてみると、大きな松の根元に蹲っている者がある。

どうやら、その者が笛を奏でているらしい。

―あれか。

その大舎人は、ずかずかとそちらへ歩み寄って、声をかけた。

「あいや、そこのお方」

すると、ふと笛の音が止んだ。

「わたくしを呼びましたか」

低く地を這いずるような声がして、木の陰からぬうっと姿を現したのは・・・。

「うわああああ」

大舎人は腰を抜かした。

そこにいたのは、全身が赤く、額に巨大な角を生やした、見るも恐ろしげな一つ目の鬼であった。

大舎人は松明を放り出し、四つんばいになってほうほうの体で逃げ出した。



その日、珍しく外出していた賀茂保憲が私邸に戻ってくると、家人が、安倍晴明が来訪していると告げた。

すると、いつも飄々として保憲の顔が、はたで見ていてもわかるくらいにすうっと強張った。

いかにも恐る恐るといった態で居間へ行くと、円座の上に晴明が端然と座している。

一見すると、常とは変わらず落ち着き払っているようである。白い顔も平静そのものに見える。

しかし、保憲の背はぞくりとした。

―怒っている。

―それも、カンカンに、だ。

何しろこちらには心当たりも後ろ暗いところも大いにある。

保憲の珍しい外出もそれが理由だ。

「これは保憲さま」

晴明は爽やかな声で言った。

「おう、晴明よ、久しいな。・・・高野へ行っておったと聞いたが」

「はい、一月ばかり。昨日戻って参りました」

晴明は頷いて、にっこりと微笑み、

「わたくしがいない間、何やら大変なことがあったようで」

「お、おう。もう聞いておったか。」

「はい」

頷いた晴明の顔からすうっと笑みが消えた。

「博雅さまに何があったのですか。」



そもそものことの起こりは、三日程前のことであった。

宴の松原で、見るも恐ろしげな鬼の奏でる下手糞な笛は、一向に上達せず、帝の寵愛篤い女御の一人が、そのためにひどい頭痛を起こすようになり、何とかせよ、とのお達しが、帝より下された。

しかし、こういう時に必ず引っ張り出される安倍晴明は、生憎不在で、ならばと賀茂保憲に宴の松原の鬼の退治が命ぜられることになった。

だが、例によって保憲は面倒がった。

何とかして楽に片付ける方法はないものか、と思案しながら内裏を歩いていると、折りよく、というか折悪しくというか、向こうから源博雅が歩いてきたのである。

博雅の姿を見て、保憲は閃いた。

「これは、保憲どの・・・。」

博雅はにこやかに挨拶をして、ゆき過ぎようとしたが、

「お待ち下され、博雅さま。」

保憲に呼び止められ、足を止めた。軽く首を傾げて振り返る。

「何でしょう?」

「博雅さま、折り入ってお願いが・・・。」



「・・・鬼に笛を教えてやって欲しい、とそう言われたのですな、保憲さまは」

晴明の口調はあくまで静かだったが、保憲には室内の空気がぴきぴきと凍り付いてゆくのが感じられた。

「そうだ」

宴の松原の鬼は、夜毎に下手な笛を吹き散らしている外は、特に悪さをする様子もない。

ならばいっそ、笛を上手く吹く術を教え、下手な笛を吹かさぬようにすればよいではないか。

それが保憲の思いつきであった。

博雅も宴の松原の鬼のことは知っていたようで、

「主上の御命とあらば・・・。」

と、割とあっさり引き受けてくれた。ちょうど宿直でもあるので、今宵にでも宴の松原へ行って見ましょう、と言った。

「それで?保憲さまは博雅さまお一人を鬼のところにゆかせて、ご自分はお屋敷でぐっすりとお寝みになっておられた、と」

晴明の声は相変わらず静かである。

「いや、おれも一緒にゆこう、と申し上げたのだが・・・」

博雅は気安いふうに笑って、一人で大丈夫でしょう、と言ったし、

「笛を奏でている博雅さまに悪さを仕掛ける妖しが、都にいようとは思わなんだから、その・・・」

「・・・」

晴明は無言で先を促した。



その夜、宴の松原の方から、妙なる笛の音が聴こえてきた。

「おお、あれは源中将さまのお笛ではないか」

「何と美しい」

「ほんに、心が洗われるよう・・・」

内裏にいた者は皆うっとりと耳を傾け、件の女御もその音を聴くうちに頭痛が治ってしまった。

やがて、博雅の笛が夜気に溶けるように消えた後は、例の鬼の笛が鳴ることはなく、穏やかに夜は更けたのであった。

だが、

それっきり博雅の消息は途絶えてしまった。

清涼殿の宿直所にも戻ってこないし、夜が明けて屋敷に帰ったというわけでもない。

人々は、宴の松原の辺りを探したが、どこにも姿が見えなかった。

その次の夜も、鬼の笛は鳴らなかったが、博雅も戻らなかった。

もしや鬼に拐かされたのでは、と内裏は上へ下への大騒ぎになっているのである。

「なるほど」

晴明はすうっと目を細め、

「今朝方、博雅さまのお屋敷より実忠どのが参りましてな。どうやら保憲さまより何ぞお話があったらしい・・・と」

顎を軽く上げて、じいっと保憲を見た。

「・・・そういうわけでございましたか」

「・・・うむ」

保憲の目は不自然に泳いでいる。

「つい先程、内裏よりあの男に呼ばれてな。すぐに博雅さまを探し出せ、との命を受けたところだ」

「主上もさぞご心痛であらせられましょうなあ。」

晴明はわざと「あの男」と言わない。

しばらく沈黙が続いた。

晴明は静かに保憲の顔に目を当てている。

その沈黙に耐えかねたように、保憲は床に両手をついた。

「すまぬ、晴明!おれが悪かった。許してくれ」

その頭の上に、晴明の冷たい声が降ってくる。

「そのようなことは、博雅さまが無事に戻られてからお聞き致します。よもや何も手を打っておられない、ということはございませんでしょうな」

「とりあえず内裏に呼ばれた帰りに、宴の松原の辺りを虱潰しに当たってみた」

この男らしからぬ勤勉さである。

「ほう」

「そうしたら、一箇所だけ陰態に抜ける口が開いたあとがあった。恐らく博雅さまはそこから・・・」

「わかりました」

晴明はすっと立ち上がった。

「夜になりましたら、そこへ行ってみることに致しましょう。ご案内下さい」

「わかった」

保憲は頷いた。

「では、戌の刻に豊楽院の裏でお会いしましょう」

言うなり、晴明はすたすたと部屋を出て行った。

晴明が去ると、保憲は安堵の余り腰が抜けたようになってしまった。

どこに隠れていたのか、猫又が現れて怯えた様子で保憲の膝に取り付いてきた。

「おお、おまえも恐ろしかったか」

保憲は猫又を撫でてやりながら、

「やれやれ」

と天井を仰いだ。

「あの調子では、博雅さまの身にもしものことがあれば・・・」

保憲は身震いし、猫又もぶるんと体を震わせて縮こまった。



その夜、豊楽院の裏で落ち合った晴明と保憲は、宴の松原へと向かった。

二人して、夜の闇の中を灯りも持たずにすたすたと歩いてゆく。

松林の中を少し歩いてから、保憲は足を止めた。

「ここだ」

見ると、松の木の根元がぼんやりと青白い光を放っている。

「例の鬼が見つかった辺りでしょうか」

「恐らくな」

晴明は松の木の幹に手をあて、呪を唱えた。

すると、青白い光はみるみるうちに身の丈程の大きさに広がった。

晴明と保憲が中に足を踏み入れ、姿を消すと、光はすうっと消えてしまった。



二人が出たのは、いずことも知れぬ草原であった。遠くに緩やかな山の連なりが見える。

「あれは鈴鹿の山ですね」

晴明が呟いた。

「では、ここは尾張の辺りか。・・・随分と遠くにつれてこられたものだ」

保憲が呆れたように首を振った。

少し離れたところに一軒の小さな家が立っているのが見える。

煌々と灯りがついていた。

何やら楽しげなざわめきや楽の音も聴こえてくる。

晴明ははっとして耳を欹てた。

「これは、博雅さまの笛の音・・・」

保憲も頷いた。

「確かに、博雅さまの葉二の音だな」

二人は大急ぎで家の方へ駆け寄った。

戸が開け放たれていたので、中の様子がよく見える。

中には十匹ほどの子狐たちが、思い思いの姿勢で座っている。

そして真ん中で、膝の上やら肩の上やら烏帽子の上にまで小さな狐を載せながら楽しげに笛を吹いているのは、博雅であった。

一曲が終わると、狐たちの間からやんややんやの喝采が巻き起こった。

耳に花飾りをつけた可愛い子狐が、瓶子を持って近づいたので、

「おお、たびたびすまぬ」

博雅は別の子狐が差し出した盃を受け取ると、酒を注いでもらい、口をつける。

「博雅!」

晴明はずかずかと中に入り、びっくりするような大声を出した。

狐たちは驚いて、物陰や博雅の陰に隠れるものもあれば、腰を抜かしてぺちゃんと座り込んでしまうものもあり、すっかりうろたえてしまってその場でぐるぐる走り回っているものもあり、と大騒ぎになった。

「・・・晴明・・・」

博雅も驚きの余り盃を取り落としてしまっていた。

「ど、どうしたのだ、一体・・・」

「どうしたも、こうしたも・・・」

晴明は更に言い募ろうとしたようだったが、大きく息を吸い込んでこれを呑み込んだ。

そして、博雅の前に膝をつくと、その肩を抱き寄せて、一言言った。

「無事でよかった・・・。」



「要するに子狐どもの悪戯であったのだな」

土御門の晴明の屋敷。

夜、灯火の炎が揺れている。

簀子で盃を手に、保憲が言った。

「ええ、あの狐たちはやっと人を化かしたりすることを覚えた幼い狐たちで、童たちだけで術の稽古をしていたところ、どういう拍子にか、尾張の野から大内裏に通じる道を開いてしまったということです」

博雅が説明した。

「それで、内裏の方から聴こえてくる管弦の音が、それはそれは楽しそうであったので、自分たちでもやってみたくなり、古くなって捨てられた龍笛を拾って一生懸命稽古をしていたのですよ」

「ところが、恐ろしげな人が叱りに来たので、力を合わせて鬼に化け、これを追い払った、ということだな」

晴明が言うと、

「そういうことらしいよ」

博雅は頷いた。

保憲と話をした日の夜、博雅はふらりと宿直所を抜け出し、宴の松原へと足を運んだ。

とりあえず手本の積もりで簡単な旋律を奏でて聴かせてみようと、博雅は葉二を唇にあてた。

か細い銀色の弓張り月が松の上にかかって、なかなかに趣きのある夜であったので、やがて興に誘われた博雅は、心の赴くままに笛を奏で始めた。

一曲終わってふと気づくと、

「おお?」

博雅の周りを大勢の子狐が取り囲んで、じっと笛に聴き入っていたのである。

その中で、他の狐たちより少しだけ体の大きい狐が進み出て、ぺこりと頭を下げ、

「とても美しい笛を聴かせて下さって、有難うございまちた。つきましては、お礼のご接待を差し上げたく・・・」

「いや、礼などと、そのような・・・」

博雅は困惑して辞退しようとしたが、途端に子狐たちが一斉に悲しそうな顔になったので、慌てて、

「わ、わかりました。お招きをお受け致しましょう。」

と言った。

すると、子狐たちは大喜びで博雅の手を引いて、陰態を通らせた。

そして、ご馳走や酒を出して、大いに博雅を持て成していたところであった。

「それにしても、あそこが尾張だったとは・・・驚いたなあ」

博雅は吐息をついた。

「まあ、博雅さまは無事であったし、狐どもにもたまに管弦を聴きに来るのはよいが、稽古は尾張でせよ、と申し付けたし、これで八方丸く収まったではないか。よかったよかった」

保憲は暢気な様子で盃を干した。空いた盃に蜜虫が酒を注ぐ。

晴明の形のよい眉が軽く引き攣った。

「保憲さま」

「何だ」

「此度のこと、元はと言えば保憲さまが・・・」

「まあ、過ぎたことはよいではないか。さして大事ではなかったのだしな」

すっかりいつもの飄然とした様子に戻っている。

「あの狐どもにも感謝されたし、何の問題もあるまいて」

「・・・」

晴明はため息をついた。こちらとしても、博雅が無事に戻った以上はそうそう厳しい口は利けない。

「食えないお人だ」

博雅は盃を手にしたまま、二人のやりとりをぽかんとして眺めている。

晴明はそちらへ目を向けて微笑した。

「博雅、笛を聴かせてくれぬか」

「お、おお」

博雅は頷いて、葉二を取り出した。

やがて妙なる音色がゆっくりと辺りの夜気を満たし始めた。




またまた助太郎さまより、以前から頂いていたリクエスト、「保憲の悪戯のせいで博雅がピンチに」にお答えしました。

うちのズボラな保憲さまでは「悪戯」というのがどうにも思い浮かばなくて、苦肉の策でこういった形になってしまいましたが。

やっぱ、NGかしら(冷や汗)



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