桜鬼

明るい春の光が、辺りを包んでいた。

丘の上に立つ桜は、枝から零れんばかりに咲き誇り、己れの重さに耐えかねるかのように、風もないのにはらはらと花びらが舞い落ちている。

白く輝き出すかのように枝の下に、すらりとした白い狩衣姿の男が立っている。

若々しく美しい白い顔、鴉の濡れ羽のような黒い髪。切れ長の瞳が、優しい光を湛えて見つめる先には、

「美しいなあ・・・」

感に堪えぬように桜を見上げる男。

「なあ、晴明」

涼やかな瞳と、青空のような笑顔を向ける。

・・・と思ったのもつかのまで。

その姿は、しずしずと散る桜の中に、溶けてゆくかのように消えた。

白い狩衣の男は、はあっと息を呑んだ。

その髪は身に纏う狩衣の色と変わらぬほどに白く、

美しい顔を、深く刻まれた皺が厳かなものに見せている。

鋭い眼差しは、しかし、奥に濡れた光を宿しているかのように見えた。

―幻を見たかよ、晴明

不意に、樹上から声が落ちてきた。

見上げても、そこは薄紅の光が満ちているだけで、声の主の姿はない。

―朱呑童子どの・・・

老人は呟くように言った。

―愚かしい、執着でございます。

自嘲の声に潜む深い悲しみが、春の光の中に吸い込まれてゆく。

―しかし、わたくしの時は止まってしまったのでございます・・・あの日以来

老人は頭(こうべ)を垂れた。

―わたくしは幼き頃に親に捨てられ、あれ狐の子よ、と蔑まれ、この世は全て敵、人の心とは浅ましく醜きものと思うて育って参りました

―師賀茂忠行、保憲父子に逢うてからは、世に頼るべき人のないわけではないと思うようにはなりましたが、人の心を信ずるに足るものと思うこと、ましてや愛おしむべきものと思うことなど、到底適うことではございませんでした

―更に陰陽の道を深く学び、宇宙の理(ことわり)についてあれこれ思いを廻らすうちに、人の世など儚きもの、人の有り様など取るに足らぬもの、という思いは強くなる一方であった・・・

―だが、かの人に出逢うて・・・

―人の世も捨てたものではない、と思うようになりました

―いくとし生ける全てのもののために涙を流したかの人の如く

―人の心とは、実に愚かで弱きもの、しかし、弱きが故に愛おしいのだ、と思えるように

―人の心の有り様には、美しきものがある、と信じられるように

―この世を美しいと感じることができるようになった・・・

―まこと、かの人の心の有り様こそ、何よりも美しく、何ものにも代え難いほど愛おしいものであった・・・

老人は顔色一つ変えず、語る声も淡々としていたが、語る言葉はむせび泣いているかのようであった。

―そして、わたくしに光を与えてくれたのです

―人ならぬ身である、あなたには笑止なことと思われるでしょうなあ

すると、樹上の声は応えた。

―いや・・・

―かの人の有り様とは、まさしくそのようであった・・・

―おれも、鬼の身でありながら、それを何よりかけがえのなきものと思うようになったのだよ、晴明

―おれとて、あの日以来、姿を失い、このように声だけの鬼となってしまった・・・

尽きることなく散る花びらは、鬼の涙のようであった。

それきり、声はしなかった。

ただ、老人だけが、一人いつまでも散る花の下に、佇んでいたのであった。




助太郎さまより、以前から頂いていたリクエスト、「博雅の死後、朱呑と語り合う晴明」にお答えしました。

下書きはずいぶん前に出来ていたのですが、なにぶん季節ネタでしたので。遅くなってしまって、申し訳ございません、助太郎さま。

関東の桜の開花に合わせて、アップ致しました。



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