暑熱

どく暑い日の昼下がりであった。

「今日も暑いなあ・・・」

晴明と共に車に揺られながら、博雅は額の汗を手巾で拭った。

車の中には、そよとも風が吹き込んでこない。

「うむ」

うなずいた晴明は、しかし少しも暑そうではない。

いつものように、白い狩衣を涼しげに纏い、額には汗一つ浮かんでいない。

「ちぇっ」

博雅は、そんな晴明の様子を面白くもなさそうに眺めた。それから、

「先日は、主上の命で祇園社で疫神祓の祈願を行ったのだがな」

「うむ」

「あの日も暑くて往生したよ・・・。何しろ願文を奉納する間中、炎天下に衣冠束帯姿で立ちずくめであったからな」

「そうであろうな」

「参列した者たちは皆汗だくでな。のびてしまった者もおったほどだ」

「おやおや」

「かえって病になってしまうかと思うたよ」

「うむ」

「おい、晴明」

博雅が珍しく苛立った声を出した。

「何だ」

「おまえ、おれの話を聴いておるのか!」

晴明は困ったような笑みを浮かべて博雅を見た。

「聴いておる」

「聴いておるように見えぬ」

「おれはおまえの話を聴く時は、いつもこのようにしているではないか」

「ならば、いつもおまえはおれの話を聴いておらぬ」

「どうしたのだ、一体・・・」

博雅は頭がずきずきと痛み、気分が悪くなってくるのを感じた。

晴明の言う通り、晴明の態度は常とは全く変わらぬのである。

それが、今日に限ってこれほど気に障るのは、どうしたわけか。

そして、妙に後に引けぬ気になって、更に言い募っていた。

「どうせ、おれに話など聴いていてもつまらぬからな。・・・そうやっていつもおれのことを馬鹿にするのであろう」

「馬鹿になどしておらぬ」

「いや、しておる」

「博雅・・・」

晴明は宥めるように口を開いたが、博雅は構わず、

「大体この暑い中出かけたくはなかったのに、おまえが無理矢理おまえの仕事のことで連れ出しておいて、その態度はないのではないか」

「いや、しかし・・・」

「おまえはいつだっておれの気持ちなど少しも考えておらぬではないか」

「・・・」

「・・・つまりは、おまえはおれのことなどどうでもよいのであろう」

そう言い放った途端、晴明の顔からすうっと表情が消えた。

人形のように冷たい顔で真正面から博雅を見つめたが、その目はそこに博雅などいないかのように表情がない。

博雅は、そのまなざしに気を削がれ、更に言い募ろうとしていた言葉を呑み込んでしまった。

気まずい沈黙が牛車の中を流れた。

折よく、というか折悪しくというか、丁度その時牛車がガタンと止まった。

外を見ると、博雅の屋敷にほど近い辻に着いたようである。

博雅は無言で腰を上げると、晴明には一瞥も与えず、前の簾を掲げて車を下りた。

心のどこかで、晴明が声をかけてくれることを期待していたのかもしれぬ。

だが、博雅が車を下りると、そのまま牛車はガタンと動き出した。

路傍に立つ博雅の脇を、何事もなかったかのようにすり抜け、都大路を去っていってしまった。



屋敷に戻った博雅は、しかしなおも晴明に腹を立て続けていた。

―晴明は、いつもそうだ。

―自分の都合でおれのことを振り回して、

―おれが一人で暑がったりしているのを面白がっておるのだ。

そのためにその夜はろくに眠れなかった程であった。

傍らを冷たく通り過ぎていった車のことを思い出すと、

―本当に、おれのことなどどうでもよいのだな

悔しくて涙が出た。

ただ、よく眠れなかったのは、頭が痛み、胸がむかつくようであったせいだったのかもしれぬが。

夕餉の膳も碌に喉を通らなかったのである。

だが、翌朝目が醒めた途端、嘘のように腹立ちは収まっていた。

そして、代わりにどっと後悔が押し寄せてきた。

何故あのような、駄々をこねる幼い童のような態度をとってしまったのか。

つかみどころのないような態度の奥で、本当はどんなにか自分のことを労わってくれているか、よくわかっている筈なのに。

晴明も、さぞ腹を立てたに違いない。

―謝らねばならぬ。

常の博雅ならば、即座に晴明の屋敷に飛んで行ったであろうが、やはりこの日の博雅もどこかおかしかった。

どうにも腰が上がらないのである。

前日の晴明の冷たい目つきが気になっているのは確かなのだが、常の博雅なら、

―おれが悪いのだから仕方がない。

と腹をくくるところであろう。

頭痛と胸のむかつきが更にひどくなったせいかもしれなかった。

「暑気あたりでしょうか」

博雅が朝餉の膳に箸をつけぬのを見て、乳母の萩生が眉を顰めた。

「そうかもしれぬな」

博雅は上の空で頷いた。

せめて文でも・・・とは思うのだが、やはりどうにも気が進まない。

そうこうしているうちに、二日、三日と日は経っていった。

その間、晴明の方からも何も言って寄越す気配はなかった。

―やはり怒っているのであろうな・・・

博雅はそう思ってひどく憂鬱になった。

相変わらず暑い日が続くし、気分もすぐれない。食も進まない。

出仕の日には重い体を引き摺るようにして参内するものの、あとは宴の誘いなどは全て断って、何かと引き籠りがちになった。

つれづれに楽を奏でる時には気持ちが落ち着くが、体がすぐに疲れてしまう。

そうして、五日ほどが経った日のこと。

その日は、かねてより勅命で博雅が大和の長谷寺に赴くことになっていた日であった。

「お加減がすぐれぬのなら、どなたかに代わって頂いたら」

博雅の顔色を見て、心配した萩生が勧めたが、博雅はかぶりを振った。

「勅命であるからな。・・・そろそろとゆくことにするよ」

だが、案の定、長い時間車に揺られたせいで、博雅の気分は益々悪くなった。

長い石段をやっとの思いで上り、何とか用を済ませると、

「お顔の色がすぐれませぬなあ」

と、寺の方でも心配して、数日留まって養生したら、と勧めてくれたが、

「これはお見苦しいところを・・・」

博雅はかえって恐縮し、予定通り一晩泊まってから、翌朝寺を辞した。

この日も、夏の日差しがかっと照りつけて暑い日であった。

「もう十日もこんな日和が続くぞ」

「雨でも降らぬかなあ」

「日照りになったらえらいことだ」

随身たちがそんな言葉を交わすのが聴こえる。

車の中は、陽射しこそ差さないが、風が通らず、暑気がこもり息苦しい程であった。

騎馬で従っていた実忠は、博雅が休息を取るたびに草陰に行って嘔吐しているので気が気でなかった。

ろくに食事を取っていないから、吐くのも胃液ばかりである。

「やはり、この辺りで宿を取って休みましょう」

博雅の背を撫でながら、そう申し出た。

「いや、何とか都までは保つと思う」

博雅は弱々しい声で答え、

「すまぬ。迷惑をかけるな」

と謝った。

そうして、車が山城との国境にさしかかった頃。

休息をとる頃合なのに、車の中から声がかからないので、

「殿、そろそろお休みを・・・」

と実忠が声をかけたが、いらえがない。

慌てて、実忠は車を止めさせて、後ろの簾をかき上げて、中をのぞいた。

「殿・・・!」

博雅は、床に臥せてぐったりと目を閉じていた。



昏倒した博雅は、すぐさま近在の寺に運び込まれた。

寺の僧たちは親切で、博雅の身分なども聴かぬうちに、あれこれと気を使ってくれる。

風通しのよい僧坊に臥床が設えられ、博雅は重たい上衣を脱がされてそこに寝かされた。

そんな騒ぎを、博雅は夢うつつで聴いていた。

頭がひどく重く感じるし、胸のむかつきも収まらない。

体に全く力が入らず、自分が何かずた袋にでもなってしまったような気がする。

耐え難いような不快感が襲ってきて、博雅は気を失った。



不快で安らぎのない眠りから、博雅が目覚めると、日はかなり西に傾いたらしく、室内は薄暗かった。

暑気も少しは引いてきたようである。

「おお、お目覚めになったようじゃ」

聞き慣れぬ声がしたので見ると、傍らに初老の僧が座している。

「お加減はいかがですかな?」

「ここは・・・」

博雅の問いに、僧は寺の名を告げてから、

「お車の中で具合を悪くなされてなあ。お手下の方々がここへお運びしたという次第です」

「・・・ご面倒をおかけします」

博雅が力のない声で言うのに対して、僧は大きく手を振った。

「そのようにお気を使われると、お体に障りますぞ」

それから、

「もうご心配なさらずともよい。お手下の方が都に使いして、あの方をお呼びするとのことですからな。おっつけ参られよう」

「あの方?」

博雅が訝しむと、僧がこれに答えるより先に、実忠が入ってきた。

「殿、お目覚めになられましたか」

博雅が目を開けているのを見て、少しほっとしたような顔になる。

「今晴明さまをお連れしましたゆえ、心安くおられませ」

「晴明・・・が・・・?」

博雅は一瞬目を見開いたが、すぐにひどく沈んだ目つきになってぼそぼそと呟いた。

「そんな筈はない・・・晴明がここに来るわけがない・・・」

「・・・殿?」

実忠が首を傾げると、

「何故そう思われるのですか、博雅さま」

涼やかな声がそう言った。

見ると、実忠の背後に白い狩衣の姿が立っている。

「せいめい・・・」

博雅はぼんやりとした顔で見た。

うれしい、とか驚いたという顔をするには弱りすぎていた。

晴明は穏やかに微笑しながら入って来ると、博雅の褥の傍らにふうわりと座した。

博雅の額に片手を載せ、そっと顔を近づけると、博雅にだけ聴こえるように低く囁いた。

「おれが来たからもう大丈夫だ。すぐによくなるからな」

博雅がこくんと頷くと、晴明は口元の笑みを深くしてから顔を離した。

それから、片手を額においたまま、空いた方の手を博雅の胸に載せ、僧と実忠に向かって言った。

「思うた通り、博雅さまは疫神に憑かれております」

「何と・・・」

「で、では殿は・・・」

「疫神と言うても、命を奪うほどのものではありませぬが、博雅さまのお体が弱ってしまっているのはこのものの仕業。疾く祓ってしまうことに致しましょう」

「お願い申し上げます」

実忠が深々と頭を下げた。

晴明は博雅の半身を起こし、右腕を背中に回して支えると、そっと耳元に印を結んだ左手を添えた。

そうして唇を博雅の耳に押しあて、その中に送り込むように低く呪を唱えた。

晴明の声が頭の中に染み渡るような心地がして、

「は・・・あ・・・」

博雅は大きく吐息をついた。

すると、

己れが吐く息と共に、何か灼けつくように熱いものが口腔を通って外へ出て行ったような気がした。

晴明は呪を唱えるのをやめ、印を結んだ左手を素早く博雅の顔の前にかざした。

霧のようなものがもやもやと現れたかと思うと、

ぽとり

と、何かが褥の上に落ちた。

見ると、小さなしじみ蝶のようである。

晴明は、博雅を元通り横たえると、懐から紙を取り出して手早くこれを包み取った。

「それが疫神ですか」

僧が興味津々に覗き込んだ。が、

「余り近づくと、今度は御坊にとり憑くやもしれませぬぞ」

と言われて、慌てて体を引く。

晴明は紙を丁寧に畳んで、

「捕らえやすいように、小さき虫の形に致しました。このように呪をかけて封印致しますので」

と言って、指先で触れながら軽く呪を唱えてから、

「後ほど都へ戻りましたら、きちんと浄化致しましょう」

そして、僧に向かって、

「博雅さまに何かお粥のようなものをさし上げて下さい。・・・それから十分なお水を」

「おお、お安い御用でございます」

僧はいそいそいと立ち上がった。



日はすっかり落ちて、灯火台に火が点っている。

昼の暑さは既に去り、辺りには涼気が漂っていた。

僧坊の簾は巻き上げられ、中空に銀の弓のように浮かぶ三日月が見える。

博雅は褥に臥してその月を見上げていた。

まだ四肢の気怠さが残っていたが、あれほどひどかった頭痛と吐き気がかなり納まっている。

傍らには晴明が座していた。

「おれは一体どうしてしまったのであろう」

博雅が晴明に言うともなしに呟くと、

「症状自体は暑気あたりだ。そのせいで食が進まず、汗をかくから体に水気が足りぬようになって具合が悪くなる」

晴明が静かに答えた。

「そこへあの疫神が憑いて、暑さに負けまいとする力を奪われて、ここまでひどくなってしまったのだよ」

「疫神・・・」

「大方、祇園での疫神祓の折に憑かれてしまったのだろう」

「祇園で?」

「憑かれたとしても、少々体がだるくなる程度のものなのだがな。・・・まあ、間が悪かったということになろうよ」

「そうか・・・」

「実忠がおまえの様子を知らせてくれた時、前におまえが疫神祓に列したことを話しておったのを思い出して、ぴんときたのだ」

「なあ、晴明」

博雅は、首をめぐらせて晴明を見上げると、

「何だ」

「その・・・この間は本当にすまなかった。・・・あんなひどいことを言って・・・」

晴明は笑った。

「あのことは気にするな」

「しかし・・・」

「あれも、言うなれば疫神の仕業だ」

「何・・・」

「おまえ、あの時何やら無闇にいらいらしておったのであろう?」

「・・・ああ」

「疫神というのはな、体を病にするだけではなく、心にもよくない影響を与えるものだ。妙にいらいらしたり、ひどく落ち込んだり、不安になったりな。・・・あれは、おまえの本心ではない、とわかっておるから、もう気に病むな」

「晴明・・・」

博雅は目を潤ませた。

心に重く抱え込んでいたものが、急にふっと軽くなったような気がして、後から後から涙が零れた。

「すまぬ・・・晴明・・・」

晴明は、袖の端で涙を拭ってやると、

「すまぬのは、おれの方だ。おれがあの時、疫神に気づいてやれれば、ここまでおまえに苦しい思いをさせずに済んだ」

そして、博雅の額に白い手を載せて、

「さあ、もう眠れ。今夜一晩ゆっくり眠ったら、明日にはすっかり具合がよくなっている筈だからな」

博雅はこっくりと頷いて目を伏せると、じきにすうと寝入ってしまった。



翌日、一行は日が落ちて暑気が納まってから寺を発った。

夕立があったので、吹き抜ける風もかなりの涼を含んでいる。

「なあ、晴明」

一つの車に晴明と二人で揺られながら、ふと博雅が口を開いた。

「おまえ、実忠から話を聴いて疫神のことに気づいた、と言うたな」

「ああ、言うた」

晴明は頷いた。舎人たちが持つ篝火の光に、白い顔が浮かんでいる。

「では、ここしばらく音沙汰がなかったのは、やはりおれの言うたことに腹を立てておったからか?」

「まあ、そういうことになるな」

晴明はさらりと言ってから、博雅の顔を見て苦笑した。

「そんな顔をするな。・・・おれも大人げなかったのだよ」

「しかし・・・」

「おまえがどうして童のように駄々をこねたのかわからなくてな。わからぬから腹が立った」

「・・・」

「それに、おまえのことだから、おまえの方からすぐ謝りに来るでろうと思ったのだが、待ってもおまえが来ぬのでなあ。少々意地になっていたのさ」

「すまぬ・・・おれもすぐ謝りにゆかねばならぬと思ったのだが・・・」

「思うように体が動かなかったのであろう?疫神が憑いていたのだからな、仕方のないことだ」

晴明は小さく息をついて、

「本当はおれに方から声をかけるべきであったのだよ。おれとの諍いを気に病んだせいで、益々おまえの病を悪くしてしまったからな」

「・・・」

博雅は黙って晴明の顔を見た。それから、花が開いたような笑顔になって、

「だが、おれがこうしてまた元気になれたのは、おまえのおかげだ。・・・都に戻ったら、またおまえの屋敷に酒を飲みにいってもよいであろう?」

「おお、もちろんだ」

晴明は頷いた。

「おまえと共に飲もうと思って、封も切らずにとってある酒がある。・・・何ならこれからおれの屋敷へゆくか?」

「おお・・・」

博雅の顔に一瞬喜色が広がったが、

「いや・・・」

すぐ困った顔になった。

「家の者も案じておろうし、主上にもご報告せねばならぬし・・・」

それから、咳き込むように、

「明日、明日の夜はどうだ?」

晴明は笑った。

「おまえは本当によい漢だなあ」

そして、頷いた。

「わかった、明日の夜だな。待っておるぞ」

牛車は、満天の星の下、しずしずと街道を都に向かって進んでいた。




華月さまの50000ヒットキリリクでございます。

うちのまったり晴博を喧嘩させるのは、殊の外難しかったですが、やっぱり何だかまったり喧嘩になってしまったようです。

ってーか、この夏の猛暑のせいで、こんなネタしか浮かばなかった・・・。

ちょっとは涼しくなってよかったですねえ。

華月さま、リク消化しきれてますでしょうか〜。(ドキドキ)



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