風を待つひと

 

                      その日、源博雅は、古くから仕えていた者で、年をとったので暇を乞い、洛北の辺りに引っ込ん

                          でいたのが、この冬病に臥せっていたと聞き、これを見舞うために車を出した。

                           老人は、気候が暖かくなってきたこともあり、床の上に起き上がれるようになっていたが、博雅が

                          自ら見舞いにやってきたことにひどく感激してしまった。おそるおそるの所望に応えて、快く笛を聴

                          かせてやると、涙を流して、博雅の手を取り、くり返し感謝の言葉を述べた。

                           「爺にはいつまでも長生きして、何度でもおれの笛を聴いてもらわねばな。」

                           労わりの言葉をかけてやったその帰途のことであった。

 

                           早春の日は早くも西の山にかかり、冷たい風が吹き始めていた。

                           一人車に揺られていた博雅は、その風にのって梅の香が漂ってきたのに気づき、車に従ってい

                          た実忠に声をかけた。

                           「止めてくれ」

                           ギギッ

                           牛車が止まると、博雅は前の簾を掲げて辺りを見回した。

                           「おお」

                           そこにひとむらの梅林があって、夕暮れの淡い光の中で、まさしく今を盛りに薄紅色の花を咲か

                          せているところであった。

                           「ここは、北野の辺りだな。」

                           「左様です。」

                           北野の社がほど近くに見える。

                           博雅は車を下りて、実忠に言った。

                           「ここからは徒歩でゆく。そなたたちは先に帰っておれ。」

                           「お寒くはございませぬか?」

                           実忠は反対したが、

                           「なに、どのみち土御門に寄るつもりであった。ここから土御門まで徒歩でゆけば、ほどよく体も

                          暖まるであろう。」

                           博雅は、気安い調子ですたすたと歩き始めた。

 

                           梅林の中に足を踏み入れると、ほのかな香りに包まれた。薄れゆく日の光と冷んやりした空気

                          にさらされても、健気に花びらを広げる姿がいじらしい。

                           そぞろ歩いているうちに興が乗り、博雅は葉二を唇にあてた。

                           心の赴くままに次々と曲を奏でるうち、いつのまにか日は落ち、丸い月がほんのりと赤い色をし

                          て、東の空にのぼり初めている。

                           博雅は笛を唇から離し、その月を見上げて吐息をついた。

                           「よい月だなあ。」

                           不意に脇あいから声がした。

                           「よい笛でした。」

                           はっとして見ると、少し離れた梅の古木の下に、袍を身に着けた男が立っていた。

                           それまで人の気配などなかったのに、と博雅がいぶかしんでよく見ると、男の体は月の光のよう

                          に淡く、向こう側がかすかに透けて見えるではないか。

                           ―この世の方ではないのだな。

                           博雅は思ったが、不思議と恐ろしいという感じはなかった。男が物静かで品のよい感じで、また

                          やさしく微笑んでいたからかもしれない。

                           「失礼ながら、あなたの御笛は時折聴かせて頂いているのですよ。北野の辺りをそぞろ歩きなが

                          ら笛を吹かれることが幾度かおありでしょう。」

                           「ええ」

                           博雅はうなずいた。

                           「何という艶なる音色であろうと思っておったのですが、今宵はこの梅の香にも誘われましてな

                          あ。」

                           「そうでしたか」

                           「かつて、わたくしが宮中にあった折にも、あなたのような御笛は耳にしたことがございませぬ。」

                           「殿上人であらせられたのですか?」

                           「はい」

                           幽鬼である男はひそやかにうなずいた。

                           「それが、このような身になり果ててから、あのような世にも妙なる楽を聴くことができるとは」

                           博雅は、思いきって訊いた。

                           「あなたは、どういう御方なのですか?」

                           男は静かに答えた。

                           「かつて、世にあった時は、菅原の右大臣と呼ばれておった者です。」

                           博雅は、あっと口もとをおさえた。

                           「あなたは、菅原道真公・・・」

                           男は微笑みながらうなずいた。

                           博雅は改まった表情で問うた。

                           「わたくしのことは、御存知でしょうか。」 

                           「ええ」

                           男はこともなげに、

                           「源博雅さま。敦仁の帝(醍醐天皇)の一ノ宮の御子にてあらせられる。」

                           「母のことも・・・」

                           「時平の左大臣の姫君でいらっしゃいましょう。」

                           「我が父方母方の祖父とも、あなたにはひどい仕打ちを致しました。そのことについて、さぞお怨

                          みである、と・・・」

                           「率直な方でいらっしゃいますなあ」

                           道真の鬼は心地よさげに笑った。

                           「左大臣どのが私を陥れたのは権力を持つ者たちの間ではよく起こること。逆の立場であれば、

                          私も同じことをした、とまでは申しませぬが、十分に理解できることでございます。それに―」

                           鬼は淡々と語った。

                           「怨みだの憎しみだのという心は、そういつまでも止まらぬものですよ。ましてや、現し身の体が

                          滅び去ったあととなってはね。」

                           「・・・。」

                           「ましてや、あなたのような、澄んだお心映えを持ち、素晴らしい楽を奏でる御方を、そのお血筋

                          ゆえにお怨みするなどと、どうしてできましょうや。」

                           それから、一層優しい目で博雅を見た。

                           「ほんに、美しい目をしておられますなあ。」

                           「・・・。」

                           「ぶしつけながら、もう一曲所望してもよろしいでしょうかな。」

                           「はい」

                           博雅は再び葉二を唇にあてた。

                           えも言われぬ音色が、月明かりに照らされた梅林の中を満たしてゆく。

                           その音色に包まれるようにして、いつしか鬼の姿は消えていた。

                           博雅は頬をつたう涙をぬぐいもせず、ずっと笛を奏で続けていた。

 

                           博雅が晴明の屋敷にたどり着いた頃には、月はかなり高くなっていた。しかし、式の女に案内さ

                          れて通された居間では、晴明はちゃんと起きていて、火鉢にあたって待っていた。見ると、二人分

                          の酒の準備も出来ている。

                           「遅くなってすまぬ。日暮れ頃には着くはずであったのだが」

                           博雅が謝ると、晴明はさして気にかけているふうでもなく、

                           「外は冷えたであろう。早く火にあたれ」

                           「おお」

                           勧められるままに、博雅は晴明と火鉢をはさんで向かい合って、腰を下ろした。

                           「実はな、晴明」

                           「うむ」

                           「ここに来る途中で不思議なことがあったのだよ」

                           博雅は、北野の梅林で菅原道真の鬼にあったことを晴明に話して聞かせた。

                           「ほう、菅公がな」

                           晴明は感心したようにつぶやいた。

                           「とても穏やかな御様子でな。ずっと優しく微笑んでおられたが、それだけに身に覚えのない罪を

                          負わされ、都を追われ、流謫の身のまま生涯を終えられたあの方の悲しみがかえって胸に迫るよ

                          うであった。」

                           博雅は目を潤ませた。

                           「今宵のように美しい月の晩に、梅の香に誘われて姿を現されるとは、何と風雅な御方であった

                          かと思うとな、なおさら御不幸が痛ましくてな。」

                           「そうだな」

                           晴明はうなずいた。博雅は想いをかみしめているかのように、しばらく黙って盃を傾けた。

                           晴明が式に命じて火鉢に炭をつぎ足させていると、ふと博雅が口を切った。

                           「しかし、菅公といえば」

                           「うむ」

                           「延喜の御世には清涼殿に雷を落としたり、我が祖父時平公や叔父たちを始め、多くの人々の

                          命を奪った恐ろしい怨霊であったではないか。」

                           「そうだな」

                           晴明は、ほんのりと唇に笑みを浮かべた。

                           「博雅」

                           「む」

                           「亡き人の霊をいうのはな、時には見る人の心によって姿を変えることもあるものなのだ。」

                           「ほう?」

                           「醍醐の帝も、時平公も、道真に悪いことをした、という負い目があり、さぞや怨んでおるだろう、

                          と思うから、菅公もあのように盛大に怨んでおると言ったのだ。」

                           「そういうものなのか?」

                           「おまえ、これまで菅公のことをどう思っていた?」

                           「うむ」

                           博雅は考え込んで、

                           「我が母は、菅公のことをそれは恐れていたが、一方で菅公の作られた歌をたいそう好んでいて

                          なあ。我らも、よく詠んで聞かされたものだ。」

                           そして、よく透る声で、

                           「東風吹かば、匂ひ起こせよ梅の花、主なしとて春な忘れそ」

                          と詠じた。

                           「このような優しい歌を詠まれる方が、雷で人を打ち殺す、などということが本当に出来るものな

                          のか、幼き頃より不思議に思っていたのだ。」

                           「それよ」

                           晴明は大きくうなずいた。

                           「おまえがそのように優しいことを考えておったので、菅公も優しい姿で現れることができたのだ

                          よ。」

                           「・・・。」

                           「おまえは、本当に優しい漢だからな。」

                           晴明はそっとつぶやくように言った。

                           博雅は再びもの想いに沈んだ。晴明も何も言わず、ただ優しい目でそんな博雅を眺めていた。

                           夜は、静かにふけていった。

 

                           終わり


                           実は、去年の夏頃に書いた話だったんですが、余りにも季節外れなんで、梅の季節になるまでお蔵

                          にしてたものです。

                           菅公って、大宰府に流されてからも「都にいた頃、食べ物を分けてくれたり、着る物をくれたり、

                          親切にしてくれた人たちのことを思おう」などと書いていて、本当は無闇に人を恨んだりする人じゃ

                          なかったようなんです。

                           それが、死後はあんなに凄い怨霊にされてしまったのは、藤原時平系の勢力を追い落とそうとする

                          時平の弟忠平系の人々陰謀だった見るのが、スジが通っているのではないかと思われます。北野天満

                          宮を造営したのは忠平の子師輔(^^;)ですし。

                           そんな状況下での、時平を外戚に持つ博雅の政治的立場というのは、いかなるものであったか。

                           本当に、「天下の懈怠の白者」で勤まったと思うわけ?

                        

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