過ぎてゆく時の狭間で
幻角の放った荒ぶる神の御剣は、まっすぐに晴明の体を刺し貫いた。
衝撃と激痛、そして落下の感覚。
「晴明!」
泣き出しそうな博雅の呼び声だけが、やけに響いた。
その博雅の腕に身を預け、朦朧としてゆく意識に鞭打ちながら目を開くと、
天の岩戸が開いていた。
満ち溢れる光、
乙女の立ち姿、
神ではなくなった少年の背中、
そんなものが、薄れゆく意識の中を次々と流れてゆき。
あとは、闇。
嫋。
嫋。
闇の底で琵琶が鳴っている。
その琵琶の音で、彼は深いまどろみから引き戻された。
だが、彼の身の内は虚ろであった。
そこには何もなくて、彼自身の名すらも失われていた。
そして、彼は疲れ果てていた。
全身がけだるく、身動きするのも億劫であった。
今はただこのまま眠っていたい。
くたびれた赤子のように、ただそれだけを彼は切望した。
だが、琵琶の音は、彼を急き立てるように鳴り続ける。
彼はしばらく駄々をこねるように、強情に横たわったままでいたが、それでも琵琶の音が止まないので、仕方なしにうっそりと身を起こした。
のろのろと立ち上がり、重い体を引き摺るようにして、琵琶の音の鳴る方へ向けて歩き出した。
やがて、闇の中に浮かび上がるように、座して琵琶を奏でる男の姿が目に入った。
知っている男である筈だったが、名を思い出すことができなかった。
近寄ると、目をあげて呼びかけてきた。
「これはこれは晴明どの」
その瞬間、扉が一つ開いたような感じがして、彼は己が名を取り戻した。
そして、目の前の男の名も、
「幻角・・・どの・・・」
夢破れた出雲の王は、それでも何故か穏やかな表情で、嫋嫋と琵琶をかき鳴らしている。
「まだこのようなところで彷徨っておいでか」
「・・・」
「ぐずぐずしておると二度と戻ることが叶わなくなりますぞ」
晴明は深々と吐息をつき、力のない声でぼそぼそと呟いた。
「わたくしはひどく疲れてしまいました・・・このまま戻ることが叶わぬとしても、それは致仕方のなきこと・・・」
琵琶を弾く手を休めぬまま晴明を見やる幻角の眼差しは、驚くほど思いやりのこもったものであった。
「無理もない・・・そなたは神の領域で持てる力の全てを使い果たされたのだ。」
「・・・」
「だが、安心召されよ。そなたに我が命の力をさし上げよう。」
この思いがけない申し出に、しかし驚きを示す力もない様子で、晴明はのろのろとかぶりを振った。
「何を言われる・・・幻角・・・どの・・・」
「お気になさることはない。我が出雲は既に滅び、我が妻、我が子らいずれもこの世のものではない。我が命、所詮永らえても何の用もなきもの。」
幻角の声は、淡々としている。
「・・・しかし、そなたはまだまだ生き続けなければならぬお方。こは、幻角の意志ではない、天の意志と思し召されよ」
「・・・しかし・・・」
「晴明どの」
幻角は穏やかに微笑んだ。
「わたくしは、ずっとそなたのことをうらやましく思うていたのですよ」
「うらやましい・・・?」
幻角はゆっくりと頷いた。
「初めてお会いした折、そなたはわたくしにこう仰せられましたなあ。思いも憎しみもない、過ぎてみればみな幻、滅びる時には滅びる、と」
「・・・はい」
「それを聞いた時、思うたのですよ。ああ、この方は、大和の国だの、みかどだのというものに縛られぬ自由なお方だ、と」
「・・・」
「滅び行く出雲に捕らわれていたわたくしには、それがひどくうらやましくてなあ」
幻角は笑みを深くした。
「そして、人がまことに大切にせねばならぬものが何であるのかも、ようわかっておられた」
「それは・・・」
「そなたが命を賭してくれたは、我が娘アメミコのため、いやアメミコが弟を想うその心がためであったのであろう?」
「・・・」
「人がまことに大切にせねばならぬもの、そは人を想う心。移ろいゆく時の流れの中で、それだけがまことに信ずるに足るものなのですよなあ」
晴明は黙したまま、淡々と語り続ける幻角を見ていた。
「それに引き換え、わたくしは、既に滅びてしもうた出雲のために、我が子を二人までも荒ぶる神に捧げてしまうなど。・・・愚かなことであった・・・」
「・・・しかし、あなたは出雲の民を愛しておられた」
「いや」
幻角はかぶりを振った。
「我が国が滅びてしまったうえは、わたくしが真に大切にせねばならなかったのは、我が妻であり、我が子らであったのだ。」
幻角の眼差しがすうっと影を帯びた。
「わたくしとて、そのことを十分に分かっておったのですよ。・・・しかし、何としても止めることは叶わなかった、我と我が身の為すことを。・・・須佐はあわれな子であった・・・」
嫋。
琵琶の音がせつせつと響く。
少しの間、目を伏せて沈思していた幻角は、やがて再び眼差しを上げ、
「・・・こは我が娘の想いを叶え、我が息子を救うて下された、ささやかな礼じゃ。・・・どうか受け取って下され」
「・・・だが、それは・・・」
「生きて下され、晴明どの。・・・あの方のためにも」
「あの方・・・」
「わたくしに生きよ、と言うて下さったお方じゃ」
どこからともなく笛の音が流れてきた。
深く澄んだその音は、琵琶の音と絡み合うように、優しく、どこか悲しげに響いた。
我知らず、晴明は呟いた。
「・・・博雅・・・」
その名を口にした途端、それまで洞のように虚ろであった胸の奥から、急に熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
庭に向かって笛を吹いている、しょんぼりとした後ろ姿がありありと浮かんだ。
晴明は思わず口元を押さえた。
涙が止まらなかった。
―彼をおいては逝けない
―彼のもとに還りたい、今すぐに
こみ上げる想いは、強い願いと化した。
―・・・生きたい!
幻角は優しく微笑んだ。
「さあ、戻られよ、晴明どの。・・・そなたの帰るべきところへ」
「・・・」
晴明は嗚咽を噛み殺しながら、深々と頭を垂れた。
琵琶の音がゆっくりと遠ざかっていった。
「・・・晴明!」
目覚めて最初に耳にしたのは、何よりも懐かしい声、そして、最初に目にしたのは、何よりも愛おしい笑顔。
自ずから、柔らかい微笑みが頬にのぼる。
どこか遠くで、ぷつんと琵琶の音が途切れたのを聴いたような気がした。
「・・・幻角・・・」
結
初の映画ネタですが、二次小説と言うよりは感想ですね。
幻角が晴明に命を与える件りはいろいろに解釈できると思いますけど、これが私の解釈っていうことで。
中井さんの幻角は、「出雲のために」と言いながら、どこかでそんな自分を突き放しているようでした。
朱雀門のところでの晴明との会話も、晴明の言葉に反発したのではなくて、「ああ、こんな見方をする人なんだ」って納得したよう感じに見えましたね。
そんな印象から出来たお話です。