春宵

朧な春の宵であった。

東の山の端から、淡く煙った望月がゆるりと顔を出そうとしている。

源博雅は、その月をめざして一条大路を供も連れずに一人で歩いていた。

内心、例によって、

―なぜ、おれがゆかねばならぬのだ?

と呟きながらである。

ことの起こりは、例によって、宿直所の噂話であった。



鴨川の向こう岸、神楽岡の東側の坂の中腹に、一本の大きな桜の木がある。

ちょうど今が花の盛りの候であるが、花が咲き始めた頃から、その木の下や、真下の岡の麓で、女の妖しが出る、という評判が立っていた。

ちょうど東国から山科を抜けて洛中へと入る道筋にも当たるので、夜になってから都へ入ろうという旅の者や、花を愛でに暗くなってから訪れる風流人の前に、桜の襲の女房姿の若い女が、ぼうと現れるのである。

透き通るような姿なので、ひと目で現つのものではないことが見てとれ、恐ろしがって逃げてしまう者が多いのだが、これといって悪さをするわけではない。

ただ、逃げずに踏みとどまった者に、手の中に何やら大事そうに持っていた物を差し出して、

「これを吹いてみて頂けませぬか」

と、おそるおそるといった体で頼んでくるのだ。

見ると、それは女の身と同じように、煙のように透き通った、頼りなく見える笙であった。

頭(かしら)の部分に小さな桜の花が散らしてあるのが朧ろげにみて取れる。

しかし、それを受け取ろうと手を差し出しても、まるで空を掴むようにすり抜けてしまう。

すると、女は悲しそうに頭を振り、

「ご面倒をおかけしました。」

と丁寧に頭を下げ、そのままふいと消えてしまうのである。

この話を宿直所で持ち出したのは、藤原景直であった。

「その噂を聞いた楽好きの白河の中納言どのがいたく興を誘われてな」

数日前の晩、件の場所へ足を運んでみたのだという。

すると、やはり桜の襲の女が現れ、これを吹いてみてくれ、と笙を差し出してきた。

中納言がおそるおそる手を出すと、ふわりとした感触があって、笙がその手に収まっていた。

「まあ」

女は妖しとは思えぬような無邪気な喜びの表情を見せた。

しかし、中納言がそれを口もとの持っていって吹こうとしても、さっぱり音が出るような手ごたえがない。

笙の吹き口が唇にあたる感触は確かにあるのだが、吸っても吹いても、楽器の中で息が動いているような気配が全くなかった。

女の顔からみるみるうちに喜色が薄れた。

「・・・ありがとうございます。お手間を取らせまして申し訳ございません。」

笙を受け取ると、悄然と頭を下げ、そのまま姿を消した。

「その様子が余りに気の毒であったので、かの中納言どのは女の願いを叶えてやれなかったのが心苦しいと、ひどく心が痛んだということだよ。」

景直が結ぶと、聞いていた公達たちは口々に言い立てた。

「変わった妖しじゃ」

「その笙を吹いたらば、いかなることになるのであろう?」

「やはり妖しのことだ、よくないことになるのではないか」

「いや、実はわたしの身内の者もその妖しに会うているのだが、実に人の良さそうな若い女で、とても邪なことを企んでいるようには見えなかったそうだよ」

「しかし、女人は見かけによらぬからなあ」

博雅は、廂に腰を下ろして、暮れかかる春の宵闇の中で、大舎人たちが篝火に火を入れて回っているのを見るともなしに眺めていた。

近頃、博雅の楽の仲間で琴の名手であった橘恒季が急な病で亡くなったことで、ひどく気持ちが沈んでいた。

笙を持つ女の妖しの話には、心魅かれるものもないではなかったが、浮ついた気持ちでそのような話題を口にしたい心持ちではなかったのである。

「しかし、知りたいのう。その笙を吹いたらいかなることが起こるのか」

「大方の者には手に取ることすらかなわぬではないか」

「楽好きの白河の中納言どのには手に取ることはかなった、というから、中納言どの以上の楽の達人がゆけば音が出るのではないか」

「ふむ」

「中納言どの以上の楽の達人か。あの方は下手の横好きのようなところがおありだからなあ。幾らでもおるであろう」

「おお、楽と言えば・・・」

博雅は少し嫌な予感がした。

目の端で一同の目が己れに集まってきているのがわかる。

「源中将どのがおられるではないか」

「おお」

「中将どの、中将どの」

「・・・何か?」

仕方なく博雅が一同に向き直ると、

「いかがであろう?今からでも神楽岡に行ってみては頂けぬか?」

「・・・わたくしが、ですか?」

「おお。中将どのも気になるであろう、その笙のこと」

「・・・ええ、まあ」

頭に桜の花を散らした美しい笙、というのにも心魅かれるし、その女人のことも気にはかかる。

しかし、今は到底そのようなことに係わり合いたい心持ではなかった。

それで、何となく返事を迷っていたのだが、

「おお、そうか。中将どのが行ってみるそうだ」

「ならば、今からゆけば、今宵のうちに十分戻れましょう。お話、楽しみにしておりますぞ」

そう言われて、

「いや、ゆきませぬ」

などと言える博雅ではない。渋々立ち上がって、清涼殿を後にした。

車を出してもよかったのだが、このような遊び半分のことで舎人たちを煩わせるのも心苦しい気がして、そのまま徒歩で内裏を出た。

空気は柔らかく、花の香りを含んでおり、このままそぞろ歩くにはちょうどよい宵である。

陽明門から大内裏を出、一条大路を東へ歩くと、戻り橋に出る。

「おるかな、晴明」

習い性で何となく口に出してはみたが、実はいないことはわかっていた。

2、3日前から、晴明は所用で近江の石山寺へ出かけており、明日にならないと屋敷へは戻らないのである。

もとより晴明を引っ張り出すつもりなどなかったが、何やらひどく心もとなく寂しい気持ちになった。

半里ほど歩いて鴨川にかかる橋を渡り、さらに東へ歩くと、行く手にこんもりとした神楽岡が近づいてきた。

月が朧ろに明るい夜とはいえ、岡を上る坂道は、足元が暗く、また勾配も急で、灯りを持たずに来た博雅は、上るのにかなり難儀をした。

やっとのことで、岡の中腹にひっそりと立つ桜の木を見つけた。

花は今しも盛りで、月の光を吸い取って、自ずから青白い光を放っているかのように見えた。

博雅は、しばらく声もなく花に見惚れた。

それから、ここまでやって来たわけを思い出し、傍へ歩み寄ろうと足を踏み出した。

途端、ゆっくりと月にかかっていた雲が、すっかり月を覆い隠してしまった。

辺りはたちまち闇に包まれる。

その闇の中で2、3歩踏み迷った博雅は、不意に片足が滑るのを感じた。

「あ!」

慌てて立て直そうしたが、既に遅く、均衡を失った博雅の体は、そのままずるずると急な坂道を滑り、

「うわあああああ」

途中から勢いがついて、もんどりと打ってから、岡の下に長い悲鳴を残して転げ落ちていった。



一台の牛車が東から白川を渡り、洛中に向かって神楽岡の南側の黒谷へ向かおうとしていた。

牛車を引くのは、何の変哲もない黒牛であったが、これを追う牛飼童や車に従う舎人の姿もなく、月明かりの下、牛がただ自らの意志のみで車を引いているかのような有様は、何とも不思議な眺めであった。

神楽岡に沿った道を南へ向かって歩んでいた牛は、ふと歩みを止めた。

車もゴトリと止まった。

車の前に一人の女が立っていた。

桜襲の小袿姿の女で、姿が月の光の中で朧ろに透けて見える。

そして、その姿と同じように頼りない声で呼びかけた。

「もうし、どうかお助け下さいませ」

声は頼りないが、必死の響きがあった。

車の前の簾が掲げられ、男が顔を覗かせた。

女の朧ろな姿に関心ありげに眉を動かしたが、驚いたり、怯えたりする風には見えなかった。

「どうなさいました」

落ち着いた声で答えながら、男は簾を巻き上げ、月の光の下に白い狩衣をまとった姿を現した。

女はすうっと車に近寄ると、

「先ほど、いずれかの殿方がそこの急坂より足を滑らせて下まで落ちて仕舞われたのです。全く身動きをなさらなくて、わたくしでは如何ともし難く・・・。どうか、お手をお貸し下さいませ。」

男はちょっと面倒だな、という顔をしたものの、すぐにうなずいて車を降りた。

そして、女の導く方へ従い、岡のたもとへゆくと、なるほど衣冠姿の公達が草の間に伏しているのが見えた。

すたすたと歩み寄った男は、途中ではっと顔色を変えた。

それまでの落ち着き払った態度を一変させ、ひどく慌てた様子で足早に駆け寄ると、公達の傍らで腰を屈めた。

意識を失ってぐったりしているその鼻腔に手を当てる。

「亡くなっていらっしゃいますの?」

女が震える声で尋ねると、男は確かな息遣いを確かめ、ほっとした様子で、

「落ちた時の衝撃で気を失ってしまっておられるだけですよ。ひどい怪我をしているようでもないですな」

そして、腰に下げた竹筒を手に取り、中の水を口に含むと、公達の上に屈み込んでその口に口移しで水を含ませた。

ごくりと喉を水が通り、うっすらと目を開いたので、優しく声をかけた。

「博雅」

博雅は初めぼんやりと見ていたが、月明かりで目の前の顔を見分けると、ぱっと目を見開いた。

「晴明!」

慌てて跳ね起きようとするのを、晴明は押しとどめた。

「まだ動くな。頭を打っておるやもしれぬからな」

それから、博雅の額に手のひらをあて、

「どこか痛むところはないか?頭とか背中とか」

博雅は顔をしかめて、

「足を打ってしまったようだ。右の脛が痛む。」

晴明が、博雅の袴の裾をめくると、なるほど、右の脛が斑に痣になっていて、その上腫れ上がっていた。

晴明は、博雅の右足首を持って右足をまっすぐにし、軽く引いた。

「つ・・・!」

博雅が小さく悲鳴を上げる。

「骨は折れてはおらぬようだ。ひどい打ち身だがな。」

晴明は袂から手巾を取り出し、竹筒の水で湿らせて、腫れたところにあて、

「立てそうか?」

「何とか」

答えながら、そろそろと半身を起こした博雅は、ふと、

「そう言えば、何故おまえがここに?・・・都に戻るのは明日ではなかったのか?」

晴明は頷いて、

「うむ。そのつもりであったが、ことのほか用が早く片付いたので、今夜のうちに都へ入ろうと思ってな」

少し離れた道端に大人しく立っている牛と車を目で示してから、

「ここを通りかかったところ、こちらの方がおまえがここでのびていることを知らせて下さったのだよ。」

「こちらの方?」

博雅は、初めて晴明の背後に立つぼおっとした女の影に気づいた。

「あなたは・・・」

女は相変わらずか細い頼りない声で言った。

「大ごとでなくてよろしゅうございました。」

その様子が生きている女と全く変わったところがないので、博雅も思わず、

「おかげで助かりました。かたじけなく存じます。」

と、頭を下げてしまった。

晴明は、女の方へ向き直ると、

「あなたは一体どういうお方なのです?なぜそのようにさまよっておいでなのですか?」

「はい」

女は悲しそうに頷いて、

「わたくし、この世にありました時には、吉野、と呼ばれ、さる公達の方にお仕えしておりました。」

その公達とは、主従の間柄ではあったが、お互いを真剣に想い合った仲でもあった、と言う。

冬の寒さがようやく緩みかけた頃、吉野は主の妹にあたる姫のお供をして、近江の石山寺に逗留した。

その折り、主から、石山寺の近くに住む主の知り合いから笙を受け取ってきて欲しい、と頼まれていた。

その笙は、頭に小さな桜の花が散らしてあることから、「小桜」と称され、大変な名器であり、主はその近江の知り合いに高価な絹を何反も贈って、やっとのことでその笙を譲ってもらえることになったのである。

笙を手に入れた吉野は、一刻も早く主に見せて喜ぶ顔が見たいと思い、姫の許しを得てその日のうちに近江を発ち、都へ向かったのだった。

ところが、いったんは笙を手放したもとの持ち主が、急に笙が惜しく思い、人を雇って密かに吉野の後をつけさせた。

追っ手は、山科の辺りで吉野に追い着いて、大きな沼の畔で笙を奪おうとした。吉野がそうはさせじともみ合ううちに、足を滑らせて沼に落ち、そのまま二度と浮かび上がらなかった。

なりゆきに驚いた追っ手の男はその場から逃げ去ってしまったが、たまたま遠くからその様子を見ていた者があり、男もこれを雇った者もすぐに捕吏の捕らえるところとなった。

しかし、吉野の亡骸と彼女が持っていた笙の「小桜」は、深い沼の底に沈んだままとなってしまったのである。

「わたくし、何としてもこの笙を殿さまにお渡ししたくて」

吉野は袂から大切そうに笙を取り出した。

「笙もわたくしも冷たい沼の底に沈んでしまいましたが、あの桜の木の下でどなたか現し身の方がこれを吹いて下されば、笙だけでも甦るのではないか、と」

吉野が見上げる先には、桜の花がほの白く淡い光を放っている。

「殿さまの別邸が黒谷にございましたので、毎年、花の季節にはあの桜の下で語らったものでございました・・・」

黙って耳を傾けていた晴明が、そこで口を開いた。

「吉野どの」

「何でしょう」

「もしや、あなたがお仕えしていた方とは、三条の少将さまではございませぬか?」

博雅ははっと目を見開いた。

それから、何か言おうと口を開く前に、吉野が驚いて、

「何ゆえ、それを・・・」

「やはりそうでしたか」

晴明は頷き、

「実は、今日石山寺で少将さまの妹ぎみにお会いしたのですよ」

「まあ、姫さまはまだ石山においでなのですか?」

吉野は目を見張った。

「はい」

晴明は頷いた。

会った、とは言っても直に言葉を交わしたわけではない。

何かの物忌みで寺に籠っていた姫が、晴明が寺に来ていると聞き、寺の僧を介して伝えて寄越したのである。

「姫ぎみは、人の噂で神楽岡に現れる小桜の笙を手にした女の妖しの話を聞き、あなたのことではないか、と気づかれたのだそうです。」

「まあ」

「よく仕えてくれたのに、あのようなことで命を落とした上に往生も叶わないまま彷徨っているというのはいかにも可哀そうだし、申し訳ない、何とかしてやってはくれまいか、と・・・」

「何とお優しいことを」

吉野は袖で目元を押さえた。

そこで博雅がひどく思いつめた顔で口を開いた。

「吉野どの」

「はい?」

呼びかけられて、吉野は博雅を見やった。

「もしや、少将どのはあなたのことを『小桜の君』と呼んでおられたのではないですかな?」

吉野は大きく目を見開き、しげしげと博雅を見つめた。

それから、あ、と口元を押さえて、

「・・・あなたさまは、源中将さま・・・」

博雅は頷いた。

「やはり・・・。先ほどよりあなたのお顔に見覚えがある、と思うていたのですが、三条の少将どの・・・橘恒季どののお屋敷でお見かけしていたのですね。」

「まあ、とんだご無礼を」

吉野はひどくうろたえた。

「恒季どのからあなたのことはよくお聞きしておりましたよ。」

「お恥ずかしい・・・」

吉野ははにかんだが、すぐにすがるように尋ねた。

「それで・・・殿さまはお元気なのでしょうか?」

博雅の表情がふうっと翳った。言いづらそうに口ごもっているので、見かねた晴明が引き取った。

「少将さまは、十日ほど前、お亡くなりになられたのですよ。」

「・・・!」

吉野は思わず口を両手で押さえた。

「なにゆえ・・・」

「あなたが少将さまの御用で都へ戻る途中に賊に襲われて命を落とされたことを、それはそれは嘆いておられたそうです。自分があのような用を頼まねば、小桜はむざむざと命を落とさずに済んだのに、とひどく己れを責めておられたとか」

「そんな・・・殿のせいではございませぬのに・・・」

吉野は悲しそうに呟いた。

「それで、すっかり気を落とされてしまい、ふとした病がもとで・・・」

「おお・・・何ということ・・・」

吉野は片袖で顔を覆い、声を上げて泣き出した。

博雅も悲しそうな顔でしばらく黙ってから、晴明を見やった。

「晴明」

「何だ」

「生前あれほど仲睦まじかったお二人が、離れ離れのまま亡くなってしまっただけでもお気の毒なのに、亡くなった後もこのように互いにめぐり逢うことも叶わぬまま、彷徨っておいでなのは、いかにもお痛わしいことだ。」

「うむ」

「何とかしてさし上げられぬか」

晴明は、吉野が大事そうに抱えている「小桜」の笙を見つめ、

「吉野どの」

「・・・」

呼びかけられて、吉野は顔を上げた。

「その笙をあなたが吹くことはできませぬか」

「いいえ」

吉野は目を丸くした。

「わたくし、琴や琵琶ならば、殿さまより手ほどきを受けましたので、多少は嗜みますが、笛や笙などはさっぱり・・・」

「そうですか・・・」

晴明は考え深げに岡の上の桜を見やった。それから、ふわりと立ち上がると、

「霞や」

と呼んだ。

「あい」

ふうわりと式が姿を現した。

「霞や、あそこへ行って、桜の花を一枝手折ってきておくれ」

「あい」

命ぜられて、霞は一礼して姿を消した。

少ししてまた姿を現した霞は、桜の花がいっぱいに咲き満ちた枝を手にしていた。

晴明はその枝を受け取ると、吉野を見て、

「少将さまは、あなたとその笙に、格別に心を残して逝かれたものと思われます。楽というものは、人の心を動かし、惹きつけるもの。あなたご自身がその笙を吹いたならば、楽の音に引かれて少将さまの御魂が現れるやもしれぬ、と思うたのですが」

「・・・」

吉野は申し訳なさそうな顔をした。

晴明は続けて、

「その笙を博雅に渡して頂けますか」

吉野は頷き、草の間に座したままの博雅に、笙を差し出した。

博雅は、霞のように朧ろな笙を見て、しばしためらったが、思い切って手を差し出した。

確かに手に触れる感触があり、笙は無事博雅の手に収まった。

「吹いてみてくれ」

晴明に乞われるより先に、おのずと博雅は笙を唇に当てていた。

静かに息を吹き込むと、笙は緩やかに音色を紡ぎ始めた。

「まあ」

吉野は息を呑んだ。

曲が進むにつれ、朧ろげであった笙は、徐々にはっきりとした形をとり始めた。

博雅は、そのこの世ならぬ音色に魅入られているかのように、無心に楽を奏でている。

晴明は紅い唇に笑みを灯して軽く頷くと、右手に桜の枝を持ち、優雅な身振りでさし上げた。

枝を持つ晴明の白いしなやかな手と零れ落ちんばかりの桜の花が、煌びやかな笙の音の響く中で、淡い月を背に浮かび上がる。

枝から零れた花びらが、ひらひらと舞い落ちる。

晴明は、そのまま手にした枝を吉野の額にかざしてゆらゆらと振り、左手の人差し指と中指を口元にあて、博雅の笙の音に合わせて歌うように呪を唱えた。

桜の花びらが、ぼんやりと立ち尽くす吉野の体を通り抜け、はらはらと舞う。

ややあって。

博雅がふと気づくと、少し離れたところに、いま一つぼんやりとした影が佇んでいる。

早蕨の襲の直衣を身につけた公達であった。

吉野もそれと気づき、

「殿さま!」

思わず声を上げた。

その声と笙の音に引かれるように、公達の影はすうっと近寄ってきた。

「小桜・・・」

呻くように呟く、その顔は、紛れもなく博雅もよく見知った橘恒季のものであった。

晴明が呪を唱えるのを止め、桜の枝を持った手を下ろすと、吉野は夢中で恒季のもとに駆け寄った。

胸にすがりついてくる吉野を、恒季は優しく抱きしめた。

博雅は笙を口から離した。

恒季は、胸に頭を寄せて泣きじゃくる吉野の手をそっと握ってやりながら、

「すまぬ。私があのようなつまらぬ用を頼んでしまったばかりに、そなたをひどい目に遭わせてしまった」

と、せつせつと詫びた。

「さぞ、私のことを恨んでおろう。」

吉野は泣きながら首を横に振り、

「お願いですから、そのようにご自分のことをお責めにならないで下さいまし。」

涙で濡れた目で、恒季の顔を見上げた。

「このように、またお会いできただけで、十分でございます。」

「小桜・・・」

恒季は、ふと博雅を見、黙って頭を下げた。

博雅がこれに礼を返すと、ぴたりと寄り添った二人の姿は、やがて微かなものになっていき、月の光に溶け込むようにふうっと消えた。

それと共に、博雅の手の中にあった「小桜」の笙も、再び朧ろな姿と化して、かき消すように見えなくなった。



「行ってしまわれたのだな」

博雅は、ほうとため息をついた。

「そう言えば思い出したよ。恒季どのが、愛おしいお方と同じ名で呼ばれている笙があると聞き、何が何でも手に入れたく思っている、と話しておられたのをな。」

それから、空になった両手を見つめて、

「吉野どのもお辛かったであろうな。大切なお方が、ご自分の死後に自らを責めて苦しまれた挙句に亡くなられたと聞いて・・・」

その目が見る見るうちに潤んでくる。

「お気の毒なことだ。・・・おれならば、とても耐えられぬ」

「・・・」

見るともなしに、空に目をやっていた晴明は、ふと博雅に目を移した。

手の平で涙を拭う姿をしばらく見つめていたが、ややあって、ほそりと呟いた。

「おまえにそのような思いはさせぬよ。」

「・・・何だ?何と言うた?」

よく聞き取れなかった博雅が問い返してきた。

「・・・いや、月が美しいな、と言うたのだ」

晴明はうっすらと微笑んで言った。

「とりあえず、おれの屋敷へゆこう。打ち身によく効く塗り薬がある。」

優しく言われて、博雅ははっと現つに引き戻されたような顔をした。その途端、また足が痛み出したらしく、眉をしかめる。

「すまぬ。面倒ばかりかけるな。」

晴明は笑みを深くし、そっと肩を貸して博雅を立たせた。

晴明の肩によりかかりながら、ふと博雅は中天に目を留めた。

そして、しみじみと呟いた。

「おまえの言う通りだよ、晴明。・・・美しい月だなあ。」




ほんとは桜の季節に合わせてアップする予定だったんですが、ちとあれこれ忙しくしている間に、関東ではとっくに散っちゃっいました。(-_-;)

東北とかではまだ咲いてるんですかねえ、桜。

モデルにしたのは、厳島神社の宝物館にある、高倉天皇遺愛の品と言われる「小桜」の笙です。

去年、宮島狂言ツアーの折に見て、あんまり美しい笙だったので、ネタに使ってしまいましたとさ。

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