ほろほろと酒を飲んでいる。

         「気持ちのよい夜だなあ。」

         もとのように明るい顔で、博雅はうっとりと庭を眺めていた。

         晴明はいつものように肩ひざを立て、柱に背を預けた姿勢で、いつもにまして優しいまなざしで博雅を見ている。

         「あの狐は、一千年も長く生きて、ずっと寂しかったのであろうな。」

         博雅がぽつんと言った。

         「お前を内側から食らおうとした古狐ぞ。」

         「うむ」

         博雅はうなずいた。誘いに負けて、あの時女を抱いていたら、そのまま食われていたのであろう。

「ただなあ、あの時おれにはあの狐の心が伝わってきたように思うのだよ。本心から寂しくて救いを求めておったような、今思うても、おれを食らおうとしていたようには思えなかったのだ。」

         「そうであろうな。」

         晴明はうなずいた。

   「おそらく狐の心の内にも、末の世までもおのれの欲のままに生き続けたいという心と、長き生に疲れて誰ぞに救われたいという心がせめぎあっておったのであろうよ。」

         「ふうん」

         博雅は盃に口をつけた。

         「ところで晴明」

         「何だ」

         「おまえ、橘俊光どのの一件、狐の罠だと感づいておったのか?」

         「まあな。よくない予感がすると言ったであろう?」

         「そうであったな。」

         そこで、晴明は真面目な顔になって、

         「しかし、狐の狙いがお前にあったことまでは、読めなかったよ。」

         「―そうなのか?」

         「読めておったら、あの時、お前を連れてはゆかなかったよ。」

         「・・・」

         「狐はお前を避けておったように見えたから、お前には危ないことなないと踏んでしまったのだよ。」

         それから、ぽつりと言った。

         「すまぬ」

         博雅は黙り込んだ。ややあって、怒ったように言った。

         「謝るな。」

         「・・・」

         「そんなふうに、お前が謝るとおれは困る。」

         「そうか」

         「そうだ。それに、おれが足手まといになるからと言って、面白いところへ連れて行ってもらえぬようになるのはつまらぬ。」

         「そうか、つまらぬか。」

         「つまらぬ。」

         博雅はくり返し、盃をあおった。晴明は楽しそうにそれを眺めていたが、

         「お前は本当によい漢だな。」

         博雅は酒をつぎながら、唇をとがらせた。

         「また、からかうのか?」

         「からかってはおらぬ。」

         「いや、からかっておる。」

         「困ったな。」

         「困ったか。いい気味だ。」

晴明の脳裏にあ、清らかに花開いた辛夷の木が鮮やかに浮かんでいた。あのような、清らかな花を心のうちに咲かせている人が目の前にいる。それだけで、この世に身をおいている甲斐があるような気がした。

 

       終わり


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