『今昔物語集』第二三

 

               源博雅朝臣が逢坂の盲のところに行くこと

               今は昔のこととなったが、源博雅朝臣という人があった。醍醐天皇の御子の兵部卿の親王という人の子
              であった。何事につけても優れていたが、ことに管弦の道を極めていた。琵琶を妙なる音で弾き、笛をえ
              もいわれぬような音で吹いた※1。村上天皇の時に(欠字)の殿上人であった。

               その時、逢坂の関に一人の盲人が庵を作って住んでいた。名を蝉丸※2といい、敦実という式部卿宮の
              雑色であった。式部卿宮は宇多天皇の御子で、管弦の道を極めた人であった※3。日頃から琵琶をお弾き
              になるのをいつも聞いて、蝉丸も琵琶を見事に弾くようになった。

               その間、博雅は、管弦の道に一途に執心していたが、かの逢坂の関の盲人が、琵琶が上手であると聞き、
              彼の琵琶をひどく聞きたいと思ったが、盲人の家が余りに見苦しかったため、訪ねないで※4、人をやっ
              て内々に蝉丸にこう言わせた。「どうして、そんな思いもよらぬ所に住んでいるのでしょうか。都に来て
              住んだらいかが。」盲人はこれを聞いて、それに直接には答えずに言った。

               世の中はとてもかくてもすごしてむみやもわらやもはてしなければ
               (この世はどのように過ごしても同じこと。宮殿も藁屋もそこに住み通せるわけではないのだから)

               使いの者が帰って、このことを語ったならば、博雅はこれを聞いて非常にゆかしく思えて、心に思った。
              「私は管弦の道に一途に執心しているため、必ずこの盲人に会おうと思う決意は堅い。それに、盲人がい
              つまでも生きているわけではないし、私もいつ命が終わるかわからない。琵琶には流泉、啄木という曲が
              がある。これらの曲はやがてこの世から絶えてしまうだろう。ただ、この盲人のみがこれを知っているの
              だ。何とかしてこれを弾くのを聞こう」と思って、夜、かの逢坂の関に行った。しかし、蝉丸がその曲を
              弾くことはなく、その後三年の間夜な夜な逢坂の盲人の庵の辺りに行って、その曲をもう弾くか、もう弾
              くかと密かに立ち聞きしていたけれど、まだ弾かず、三年目の八月十五日の夜、月が少し曇って風が少し
              吹いていて、博雅は、「ああ、今夜は興の深い夜だなあ。逢坂の盲人も、今夜こそ流泉・啄木を弾くので
              ないか。」と思って、逢坂に行って立ち聞きしていたところ、盲人は琵琶をかき鳴らしてしみじみと思い
              にふけっている様子である。

               博雅はこれを非常にうれしいと思って聞いていると、盲人は一人心を慰めるため歌を詠んで言った。

               あふさかのせきのあらしのはげしきにしひて※5ぞゐたるよをすごすとて
               (逢坂の関を吹く嵐の激しさに盲しいつつ耐えている。この世を過ごすために。)

               と琵琶を鳴らすので、博雅はこれを聞いて涙を流し、限りなく哀れに思った。盲人は独り言に言った。
              「ああ、興の深い夜だなあ。もし、私の他にも哀れを解する人が世の中にいて、今夜、音楽の心得のある
              人が来てくれたら、語り合いたいものだ。」と言うのを聞いて、博雅は声に出して、「都の博雅という者
              がここに来ております。」と言うと、盲人は「そうおっしゃるのはどなたです?」と言った。博雅は、
              「私はこれこれこういう者です。一途に管弦の道に執心していたので、この三年、この庵の辺りに来てい
              たのが、幸いにして、今夜あなたにお会いしたのです。」盲人はこれを聞いて喜んだ。博雅も喜びながら
              庵の中に入って、互いに語り合って、博雅は「流泉、啄木の曲をお聞きしたい。」と言った。盲人は「亡
              くなった宮さま※6はこのようにお弾きになっていました。」と、例の曲を博雅に教えた。博雅は琵琶を
              持って来ていなかったので、ただ口伝えでこれを習って、返す返す喜んだ。明け方になって帰って行った。

               この話について思うに、すべて芸の道は、ただこのように執心すべきである。ところが、近頃はまこと
              にこのようではない。されば、将来は諸道の達人は少なくなってしまう。まことに情けないことである。
              蝉丸は身分低い者であると言っても、日頃宮がお弾きになる琵琶を聞き、このような達人になったのであ
              る。それが盲人となったので、逢坂にいるのである※7。これより、盲人の琵琶というものが世に始まっ
              た、と語り伝えられている。              


               原作でもかなり詳しく紹介されている、博雅の説話の中でも最も有名なものでしょう。コミックでも
              「熱意は買うけど」と桜の精に言われ、(しかし、私もいい加減執念深いな(-_-;))原作ではそうでも
              ないのに、暑苦しい性格にされちゃった根拠になった話です。でも、要するに、一つの道を究めるなら
              このくらい一生懸命やんなさい、ていう教訓話でしょ?その引き合いに、有名な楽の名人を引っ張り出
              しているだけで。

              ※1 原文の「笛をも艶ず吹きけり」という表現が個人的にすごく好きなんですよー。『陰陽師』の博
              雅の笛のことを言っているようで。

              ※2 蝉丸については、『平家物語』などでは醍醐天皇の第四皇子としているそうです。だったら、博
              雅の伯父さんやん。

              ※3 博雅とはいろいろあったらしい、式部卿宮については、他の説話で詳しく。

              ※4 蝉丸の家が余りに見苦しかったので最初は訪ねなかったっていうのはもちろん、「そんなところ
              に訪ねて行ったら、気を使わせるだろう」という配慮ですよね。「オレがそんな小汚いところに行ける
              か」じゃなくて。(爆)こっそり行ってるしね。

               しかし、そんな見苦しい家に、晴明と二人して押しかけて行ったんかい(^^;)(「首」(『龍笛ノ巻』)
              参照)

              ※5 「しひて」は「強ひて」と「盲ひて」の掛詞になってます。

              ※6 この亡くなった宮さま、てのが曲者で、敦実親王が亡くなった時、博雅は数えで50才。原作で
              は、敦実親王は亡くなったことになってますので、またしても年齢の問題が。(^^;)獏先生、ほんとは
              博雅を幾つのつもりで書いてらっしゃるんですか〜???

               それにしても、50過ぎたいいおっさんが琵琶聴きたさに三年も通いつめたんかい、て感じですが、
              別のテキストでは、博雅が幼い頃の話になっているそうですし、『江談抄』に載っている同じ話では蝉
              丸の身許については明記されていないので、年齢の問題にはそんなにこだわらなくていいのかも。

              ※7 柳田国男によると、蝉丸のような盲僧は逢坂のような国境に住み、地神の鎮めをしていたそうで
              す。


           『今昔物語集』は、平安後期、1120年以降の成立と見られる、代表的な説話集。この話と次の玄
              象の説話は本朝説話の世俗説話に分類されます。晴明や保憲さまに関する説話も入ってます。

 

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