源博雅



史実

 918〜980。平安時代の雅楽家。父は醍醐天皇第一皇子克明親王、母は藤原時平女。臣籍に下され、源姓を賜う。934年、
16才で従四位下に敍せられ、947年、29才の時には中務大輔(陰陽寮の属する中務省の次官です)、959年、41才で右兵衛
督に任ぜられ、965年、47才の時には左近衛中将、そして、974年、56才で従三位皇太后宮権大夫に任ぜられたのが最高位。

 左大臣にまでのぼりつめた伯父源高明ら他の賜姓源氏たちに比べて政治的には不遇であったと言えましょう。本人の性格もあり
ましょうが、やはり政治的に恵まれなかったと言われる父を早くに失い、母方の祖父藤原時平はすでに亡く、これといった後ろ盾が
なかったというのも一因ではないかと思われます。

 しかし、雅楽には優れた才を発揮、著作も残し、作曲した「長慶子」は現在でも演奏されています。「博雅三位」と通称され、後世
に名を残したのは、ひとえにその楽の才のみに負うものであったのです。

 藤原氏が台頭してゆく時代、皇族出身の賜姓源氏の立場というのは、実に難しいものであったそうです。博雅の叔父、源高明も
のちに藤原氏の陰謀で都を追放されてしまいます。(元和の変)仮に、博雅が只の楽バカな世間知らずだったとしたら、このような
状況下で、とても我が身を処していくことなどできなかったでしょう。やはり、獏先生が指摘されているように、「人一倍苦労はしたは
ず」だが、その清らかな心を失わなかった人と考えるのが自然ではないでしょうか。説話に多くの逸話を残すのも、その人柄が愛さ
れたゆえだと思います。

 政治的な動きを封じられた賜姓源氏たちは、そのエネルギーを文芸、芸術方面に注ぎ、多くの才能を生んでいます。「博雅三位」
こと源博雅は、その道に咲いた大輪の花であったのです。
伝説

 説話などに登場する博雅の伝説については、「博雅さまとわたくし」で詳しく見ていますが、博雅が笛を吹いたら瓦が落ちたと記し
た『江談抄』と蝉丸や玄象に関する説話の載っている『今昔物語集』は平安後期の成立、そして、博雅が無心に奏でた楽が盗人や
殺し屋の心を動かしたという、問題の『古今著聞集』は鎌倉時代の成立です。この『古今著聞集』は、鎌倉時代の人々が、王朝文化
に憧れ、詩歌管絃に優れた話を多く集めたところに特徴があると言われます。つまり、図らずして楽の力で人や鬼の心をも動かすこ
との出来る「管絃の仙」源博雅は、華やかな平安文化への中世の人々の憧れの中で形作られたということになるでしょう。

 晴明が異能のヒーローとされていくのとほぼ同じ時期、管絃の申し子たる博雅のイメージも作られていったことになります。なかな
か素敵な偶然ではないでしょうか。
『陰陽師』

 シリーズ当初、博雅が武士として描かれている点について、獏先生自らミスだと認めておられるのですが、ただ、「玄象という琵
琶・・・」の元ネタの『今昔物語集』の本文にはっきり博雅のプロフィールが明記されていて、しかもこの短編は原典を読み込んでい
ないと書けない内容なので、見落としたとは考えにくいのですよね。で、これはあくまで勝手な推測なのですが、判っていて敢えて
武士にしたのではないか、という気がします。

 主人公コンビを、「美しい魔術師と精悍な戦士」という、ファンタジーでは定番な組み合わせにしたかったのではないでしょうか。
それが、途中から博雅を史実通りに扱わざるを得ない状況になって軌道修正した結果、晴明と博雅のコンビは、ファンタジー風に
言えば、いずれも非凡な力を持った「魔術師と楽士」という組み合わせに変わったということになるのでは。晴明が呪を唱え、博雅
が笛を吹くことによって、八方丸く収まる。こちらの方が、『陰陽師』の世界を独特なものにしていて、よいのではないかと思います。

 個人的に「精悍な武士」な博雅より、「繊細で優しい心を持った教養人」な博雅の方が、好みですし。(笑)

 長編『生成り姫』で描かれた博雅の純粋さ、魂の清らかさは、切ない印象を残します。「鬼となったそなたが愛しい」と言い切っ
ちゃうのって、ほんとに凄いと思う。どんなことがあっても、その人の本質を見つめ続けられる強さと優しさを持っている人なのです
ね。「平安最強の陰陽師」がハートをがっちりゲットされちゃうのも無理もないです。

 晴明は自ら鬼神を動かすが、博雅はその心によって自ずから鬼神が動く、という言われ方がよくされます。『生成り姫』には博雅を
「鳴らずにおれない楽器」、「天地のための沙庭」と表現する件があります。つまり、晴明は宇宙に向けて自ら働きかける存在である
のに対して、博雅は宇宙からの働きかけを受ける存在、ということになるわけです。

 とすると、この二人の組み合わせというのは、天地に向けて働きかける力のある晴明を本当に受け止められるのは博雅だけだし、
天地からの働きかけを受け止める力を持つ博雅を満たすことのができるのは晴明だけ、という風に解釈することができるのではない
でしょうか。やおいとか同性愛とかいうのは全く抜きにしても、何ともセクシーな関係ではないかと思うのですが、どうでしょう。



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