月読童子(つくよみどうじ)

 そろそろ山桜が散り始めようとする春の宵。
源博雅は堀川橋の袂で笛を吹いてた。
この季節になると、この漢の足は、知らずにこの場所へと向かう。
博雅の胸に、今でも鮮やかに残る一人の女人が、そうさせるのかも知れない。
その身が鬼と変ずる迄に、ただ一人の男を一途に慕い抜いた、哀しい女(ひと)。
今もなお、その苦しみから解き放たれる事なく、現し世をさまよう女。
『そのお言葉を十二年前に聞きたかった…』
苦しい息の下告げられた、博雅への想い。
自分がもっと器用な人間であったなら…。

―― 徳子姫。

 いくら笛を吹こうとも、もう二度とあの柳の下に女車が現れる事はない―そう思うと博雅の胸は締め付けられるように痛み、涙が零れた。
胸の痛みを吐き出すように音を紡ぐ。
博雅の類稀なる楽才は、彼の感情を昇華させ、紡ぎ出される音色は、純粋な哀しみのみとなり、透き通るような美しい調べとなった。
鬼さえも涙する哀切な響きが、中天にかかった三日月へと昇って行く。
一曲、また一曲…。
時の経つのも忘れ、心のままに奏じ続ける。
 ふと気付くと、微かではあるが、博雅の笛に妙なる調べが和していた。
今迄耳にした事のない、楽器の音色であった。
音の余韻から、なにがしかの糸物である事は察せられた。
思わず吹く手を止めて、その音色を探ろうとすると、ぴたりと止んでしまった。
空耳であったかと、また笛を吹き始めると、その音が聞こえてくる。
幻聴ではない。
しかし博雅が笛を止めると、その音も止んでしまう。
笛を吹きながら、耳をこらし、音源を探ろうとするが、どちらの方角から聞こえて来るのか全く解らない。
 まるで月が博雅の笛の音に応え、月光を鳴り響かせているかのようであった。
不思議に思いながらも、その音色の心地良さに、博雅は笛を吹き続けた。
やがて夜明けが近づき、月がその姿を隠す頃、その音は止んだ。

 家に帰ってからも、あの何とも微妙(みみょう)な弦の響きが頭から離れない。
そこでその日の夜もまた、博雅は堀川橋へと向かった。
今度は博雅が笛を吹き始めると、すぐに件の音色が和して来た。
相変らずどこから聞こえてくるのかは解らないが、昨日よりややはっきりと聞こえる。
博雅は弦の響きを追いながら、その夜もやはりその音が止むまで笛を吹き続けた。
次の日も、また、次の日も…。
不思議な事に弦の響きは日を追う毎に、鮮明な物となっていった。




 安倍晴明邸のいつもの濡れ縁。
晴明と博雅は見事な望月を肴に、酒を酌み交わしていた。
月明かりに映し出された庭は、そろそろ初夏の様相を呈し始めている。
とうに散り終わった桜が、青々とした葉を生い茂らせている様を眺めやりながら、博雅が口を開いた。
「なあ、晴明よ。以前おれはお前に、この身の全てに感じる物が愛しいと言うた事があったな」
「あったな」
「だが、最近は、目にも見えず、耳にも聞こえず、手にも触れず、匂いもせずとも、愛しいと思えるものがあるのだよ」
「ほう?それはどのようなものだ?」
晴明は口元に運びかけた杯を止めて、興味深げに博雅を見た。
博雅は酒をぐっと飲み干すと、語り始めた。
「例えばあの桜だ」
「桜?」
「今はすっかり花は散ってしまった。だが、確かに花は咲いておった事をおれは覚えておる」
「それで?」
博雅は己の心を探るように、一言一言考えながら、訥々と言葉をつなげる。
「花が散ってしまうのは、確かに寂しい事ではある。だが、その寂しさのみに心を奪われて、咲いていた花の美しさ迄、忘れてしまってはいけないと思うのだよ。
こう…上手くは言えんのだが、その物の形は失われてしまっても、けして失われない物が確かにあると、最近、そう思えてならんのだ」
「 ――― 」
「徳子姫の事も…。あのように悲しいお別れをしてしもうたが、それでもあの方にお会いできてよかったとそう思えるのだ」
博雅はそこまでしゃべり終えて、少し照れた様子で瓶子に手を伸ばした。
空になった杯に酒を満たし、口へと運ぶ。
博雅の仕草を、おもしろそうに眺めながら、晴明は問うた。
「何かあったかよ。博雅」
「わかるか?」
「今迄口にせなんだ、あの姫の事まで持ち出して、そのようにいきなり悟った風な事を言われてはな」
笑いを含んだ晴明の声に頭を掻きつつ、
「実はな―」
博雅は先日来、自分の笛に和してくる、不思議な弦の音について語った。

「ほう…。それは何とも不思議な話だな」
話しを聞き終えた晴明は、顎に手を当てて、何やら考え込んでいる。
「うん。あれは人の出せる音ではない。化生のものやもしれん」
「音が段々とはっきり聞こえるようになって来たのだな」
「ああ、昨夜はかなり近くで聞こえた」
「月が満ちるに従ってか…。おもしろいな」
「お前はすぐそれだ」
博雅は渋い顔をしたが、すぐに月を眺めながら、どこか夢見心地に話し始めた。
「しかしそれがなんとも、慈しみに満ちた音色でなあ…。おれの笛の音を優しく包み込むようなのだ。音合(ねあ)わせをしている時に、心に浮かぶのは、徳子姫とお会いした頃の、あのなんとも言えない、幸せな心持ちばかりなのだよ」
「ほう…」
ゆったりと杯を重ねながら、晴明は優しい表情を浮かべて博雅を見ている。
「そうしてここしばらく音合わせをしているうちに、おれはあの方にお会いできて、本当に幸せだったと思えるようになったのだ。お別れの際の悲しみも辛さも、あのお方が確かに生きてこの世にあった証に感じられて、思い出す度に痛む心さえ、今では愛しく思えるのだよ」
博雅は晴明に視線を移すと、穏やかな表情で微笑んだ。
それにつられるように、晴明の唇にも微笑みが浮かぶ。
「それは是非、聴いてみたいものだな」
「おう。実はぬしにも聴かせたくなってな。今宵はそのつもりで来た」
「それでいつもより早く来た訳か」
「そう言う事だ」
「では行くか」
「ゆこう」
「ゆこう」
そう言うことになった。




 満月は明るく輝き、白々と二人の行く手を照らし出している。
晴明は片手に瓶子をぶら下げて、博雅の横を歩いていた。
晴明いわく、「せっかく妙なる楽の音を聴くのに、これがなくてはな」と言う事らしい。
 やがて掘川橋に辿りつくと、博雅は懐から葉二を取り出して、奏じ始めた。
晴明は博雅の傍らに佇んで、じっとその音色に耳を傾けている。
程なくして、今夜はすぐ側で、はっきりと、弦の調べが響きだした。
博雅が思わずそちらを見やると、金色に淡く輝く童子が橋の欄干に腰を掛けていた。目を伏せて、うっとりした表情で月琴(げっきん)を奏でている。
絵巻物に描かれている、天人のような装束を身にまとった、少年のようでもあり、少女のようでもある、それは美しい童子であった。
博雅が驚いて笛を止めると、童子は伏せていた目をあげた。
博雅を見詰める澄んだ金色の瞳が、笛を続けるように促している。
その瞳に魅入られたように、博雅は再び笛を吹き始める。
晴明はただ黙って二人を見守っていた。
 博雅の笛と童子の琴は、お互いを導き合い、高め合い、この世のものとは思えぬ楽を紡ぎ出す。
冴え冴えとした月明かりの下、二人の楽の音が幽玄の世界を作り上げる。
博雅の笛に惹かれてやって来た鬼達が、琴の音色に浄化され、人の姿を取り戻し、次々に天へと昇って行く様が、晴明の目には、はっきりと見て取れた。
「これ程のものとは…」
思わず溜息まじりの呟きが漏れる。

 ふと、童子が琴を弾き止めた。
博雅も夢から醒めたように、笛を止めて童子を見る。
童子の瞳は博雅を捉え、ついでその横を眺めやる。
博雅と晴明がその視線を追うと、そこには琵琶を抱えた徳子姫の姿があった。
徳子姫は生成りの姿ではなかった。
初めて博雅が目にした、月の光の中に泳ぎ出してしまいそうな、あの美しい姿で何か物言いたげに、じっと博雅を見詰めている。
晴明が低く呪を唱えると、徳子は嬉しそうな笑顔を浮かべた。
『博雅さま…』
「徳子姫―」
『私は幸せでござりました。父母に慈しまれ、済時さまに愛しまれ…。何より、あさましき姿になり果てた我が身さえ、愛しいと言うて下さり、恨みのままに現し世に留まる私の為に、ずっと笛をお聞かせ下さった、博雅さまにお会いできて…。幸せであったのです。一時の恨みに囚われ、忘れ果てておりましたが…』
「姫…」
『博雅さまの笛と』
徳子はつと、童子の方を向き、
『そこな童子さまの琴が、思い出させてくれたのです』
はらはらと涙を零した。
童子はこの上なく優しい笑みを浮かべ、しゃらんと琴をかき鳴らした。
それから徳子は晴明に向かい、深々と頭を下げた。
『あなたさまのおかけで、博雅さまにお礼を申し上げる事ができました。この上はもはや、思い残す事はござりません』
晴明は徳子に微笑みかけ、黙って頷いた。
徳子の姿がゆっくりと薄らいで行く。
その姿がすっかり消えた後、天から明るい声が響いた。
『ありがとうございます。博雅さま…。徳子は幸せでごさりました…』
「徳子姫…」
博雅の頬をいつしか涙が伝っていた。
「行ってしまわれたのだな…」
ぽつんと呟く博雅に、晴明が労わるように声をかけた。
「極楽浄土に行かれたのであろうよ」
「ああ…」
博雅は素直に頷いた。

 ふと気付くと、童子の姿はどこにもなく、しんしんと降り注ぐ月光は、博雅と晴明を照らし出しているのみであった。




 再び晴明邸へと戻った二人は、また、酒を飲んでいる。
「晴明よ。あの童子は一体何者であったのだろう?」
博雅は空になった杯を握ったまま、眉を八の字にして考え込んでいる。
「さあてな…。おれにもよくわからん」
「おれにはなんだか、月よりやって来た、天人のように思えたよ」
「かもしれんな。ぬしの笛に惹かれた、月読の精であったのやも知れぬ」
「おれの笛にか?」
博雅は意外そうに、目をみはる。
晴明は博雅の反応をおかしそうに眺めながら、杯に酒を注いでやる。
「博雅よ。お前はいつも月を愛でては笛を吹いておるではないか。月読様も嬉しく思われていたのであろうよ。姫を想う博雅の心にうたれて、童子を遣わされたとしても不思議はない」
「晴明、お前、おれをからかっておるだろう」
「からかってはおらん。褒めておるのだ」
「笑いながら言われても、褒められた気がせん」
「それはすまん」
「ちぇっ」
ちっとも済まなそうではない晴明に、博雅はむくれてみせる。
「怒るな博雅。まこと、天人の楽のようであったぞ」
「ああ、なんとも言えぬ琴の音であったなあ」
その琴の音を引き出したのは、他ならぬ博雅自身であるというのに、当人には一向に自覚がないようだ。まるでまだ、あの琴の音が聴こえてくるかのように、うっとりとした表情で月を眺めている。
晴明は苦笑を隠すように、杯を口へと運んだ。
後はただ、黙って杯を重ねる二人を包み、春も終りの夜は静かに更けていった。



芝山言い訳 「生成り姫」の結末が可哀想だったので、つい、書いてしまいました。
晴明なんもしてないし、なんかやたらご都合主義の話でお恥ずかしいです^^;
楊翠霞さま、こんな物を貰ってくださってありがとうございます。

芝山さま、素敵なお話ありがとうございます〜
月読童子さまが素敵ですね〜。
「生成り姫」、よいお話なのですが、あの結末はちょっと博雅が可哀そうかも・・・って私も思いました。(翠霞)

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